

今回の道中記は山形県と秋田県と新潟県を新潟を、サイバー大八車でドライブした。2025年4月の道中記。
山形県米沢は上杉謙信のイメージがあるが、伊達政宗の生誕の領地でもある。
山形県米沢市の館山城が伊達政宗公の、誕生の地という説があるので行ってみた。
仙台の伊達政宗のイメージが強いが、豊臣秀吉の奥州仕置で伊達政宗は米沢を去り
大崎・葛西(宮城県大崎)の旧領を与えられ岩出山城を本城に定め、後に領土拡大し
12年後に仙台へ居城を移し領内統治を行った。
東京から東北自動車道に使えば、米沢観光は日没までに着く時間に出発をしたが、
東北自動車道で久喜白岡IC手前で羽生ICまで、2時間かかる事故渋滞に巻き込まれた。なんだとこの渋滞・・・俺のこの燃え上がった山形道中意欲をどうしてくれるんだょ!これは大友克洋のアキラの山形ァ風のセリフが浮かんだ。
久喜白岡ICから一般道に降りて羽生ICで再び高速に乗り直したが、一般道も渋滞で羽生ICまで80分もかかり、米沢市に日の明るい時間に着かないかも知れないので、米沢館山城址に行くのは諦めてかけたが、
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の有名な
米沢藩主の上杉鷹山の和歌を思い出したので、頑張ってとりあえず休憩する。

パーキングエリアでイチゴソフトを食べて落ち着いて何とか、日暮れ前に伊達政宗公の生誕の地の国指定史跡米沢舘山城址になんとか、和歌の為せば成るで到着した。
入り口に私有地につき関係者以外立ち入り大歓迎と書いてあり、安心してサイバー大八車を駐車場に停めた。


幻想的な満開の桜が夕暮れの風景に、古からの時の移ろいを感じた。

伊達政宗公生誕の地碑の後方には大樽川が流れている。


日が暮れ出しており、日没寸前までに戻らないと暗闇で下山が出来なくなる寸前の時間だが本丸に行ける所まで登ってみた。


逢魔が刻の夕暮れは野生動物の活動が始まる時間帯だ、念の為に棒を杖に持って
50M位の高さに見えるが登ってみた。

城や車曲げの出入り口は桝形虎口と呼び、下から登ってきた敵を迎え撃つ

腰曲輪の目的は斜面の防衛防衛の為。
この下に貯水池があり、東北電力(株)館山発電所の水力発電の施設がある。
この場所に着いた途端に、大きな音のサイレンが響き渡り続けた。
この真下にある東北電力館山発電所の、水力発電の放水が始まったと思われる。
下山したくなるレベルの轟音だ。
しかし、轟音で野生動物が驚き退散するので、これで安心して車曲を散策出来そうだ。

豊臣秀吉の命により破城され、後に上杉家にも使われ石積みは後に破城されたという。

細い道を進み物見台まで見物したので、日も暮れ暗くなったので大樽川側の掘割から下り館山城址を出た。
次の目適地は近くの米沢城で、着くと夜だが意外と人出があり活気があった。
米沢城は伊達政宗の本拠地であったが、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の
奥州仕置により会津若松城と領地の会津は没収され、仙台の岩出山城に転封された。
その後は浦生氏から上杉氏が統治をし現在は、松が岬公園となった。
夜なので景色を期待していなかったが、米沢城はライトアップされてとても綺麗な夜桜が見れてこの時間に来て良かったと思う。

戦国時代の武将達が自称を含め名乗った、朝廷から正式に叙任される京都の監察・治安維持の役職の「弾正」では、上杉謙信は弾正少弼(だんじょうしょうひつ)の正式な官位で、織田信長の弾正忠(だんじょうのちゅう)よりも一段官位が高かった。
江戸時代の米沢上杉家は上杉弾正大弼家とも呼ばれる。
朝廷から授かった紺地日の丸(こんじひのまる)の旗は、長尾家に代々伝わる。
上杉軍の旗印は刀八毘沙門(とうはちびしゃもん)で、上杉謙信が深く信仰していた
毘沙門天の「毘」を取り旗印とした。

龍字の旗は龍の字を崩したもので、懸り乱れ(かかりみだれ)龍とも呼ばれ
敵中に突撃する際、馬前に掲げられました。突撃
は龍のうねるが如く、敵前に乱入せよという意味なのです。

上杉謙信は本当は長岡景虎であり、越後長尾氏の当主の長尾景虎だった。
後に山内上杉家の養子になり上杉姓を名乗り、上杉謙信は長尾景虎が
越後長尾氏の当主として関東管領を、継承した人物になった時の名前でした。

伊達政宗誕生の碑が此方にもありました。どっちなんだろうか。

米沢藩9代目藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)の和歌の石碑
なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬは人の なさぬなりけり
の有名な名言の人物はこの御方でした。

上杉神社は上杉謙信・上杉景勝が祀られている。夜なので木戸が閉まっていたので、
参拝は出来ず。


大渋滞で諦めかけた米沢巡りだったが正に、なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬは人の なさぬなりけりの米沢城で、その意味が夜桜の美しさで、なせば成された。
続く