※このブログはフィクションです。
令和8年2025年4月の道中
早朝の羽黒山出羽三山神社へ初詣りを終えたみらい三度笠は、羽黒山の石階段の参道を下ると、登りの参拝客が多くなっていた。
開店していた二の坂茶屋で力持ちを食べて下山した、生まれ変わったみらい三度笠のお食い初めは、酒田市にサイバー大八車を走らせラーメンを食べに行った。

煮干し鳥系スープで中細ストレート気味の麺のワンタン麺 個人的な評価は食べ〇グの評価が妥当。

出羽国は江戸時代の初期は最上氏が支配していた出羽山形藩だが、お家騒動で幕府により改易となり松平家時代からの徳川家の家臣の譜代大名の庄内藩の酒井家に変わったが、後に幕府による三方領地替えの危機もあったが、領民と藩主の結束で回避して幕末まで出羽国を統治した。
北前船の港で栄えた、山形県酒田市の街を観光した。

巨大な獅子が設置されていた。1976年昭和51年に酒田で大火事が発生した。復興のシンボルとして大獅子が誕生し、後に赤ちゃん獅子も含め16体誕生した。

江戸時代の庄内藩は譜代大名である為、幕府の工事負担や藩主の贅沢で財政難になったが、北前船の豪商である本間家のお陰で財政を立て直した。そこで「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」と言われた。
その本間家旧本邸と酒田市道路元標の、石碑の並びにある奥の細道の木標に近江三郎兵衛宅跡と記載される。どんな人物の事だろうか。
出羽三山神社でも奥の細道松尾芭蕉像とその足跡があり、酒田市にも松尾芭蕉像がある。

酒田港から南側の山居倉庫にコロナ禍以来の再訪をした。
山居倉庫は明治26年1893年に旧庄内藩主酒井家により、酒田米穀取引所の付属倉庫として建設され流通と品質を確保した。2021年に国の史跡に指定された。

コロナ禍の頃の時は倉庫として、稼働していたような気がする。

ケヤキは手の指のようで見ごたえがある。雪や日差しから米を守る為の植樹で枝が守りの手のようだった。

昔の国営放送の人気連続ドラマのおしんのロケ地の舞台だったが、オラは大根飯のレシピを知りたい。

前回は無かったいろは蔵パークという、複合商業施設が出来ていた。山居倉庫の土産店も此処に移転している。

全て美味だが、真中のつや姫の優しい甘さが好みだ。
かつて北前船で栄えた酒田の街のこのような、イメージの料亭に行ってみた。

酒田市の料亭の山王クラブを見学した。受付で普通の説明を受けて館内を巡る。明治28年1895年という130年前の木造建築の内観すると綺麗に飾られ傘福が華やかさを増していた。舞子さんは居ないが福傘が室内に飾られていた。
その次は江戸時代から続く、茶屋の歴史を持つ舞子茶屋相馬楼を訪れた。

相馬楼には九曜紋の意匠が施されており、今朝の羽黒山の五重塔の平将門伝承を思い出した。羽黒修験の妙見信仰との関係だろうか。
閉店間際に入店すると受付は、白粉で紅を差した化粧の着物姿の若い舞子さんだった。
京都ではなく山形の酒田の街で、江戸時代に戻ったかと思った。
閉館時間が近く見学しか出来ないのだが、外人観光客向けでもあろう舞子さんについてのビデオ説明を見た。舞子さんに此処の振付は日本舞踊の何処の流派かを訊ねたりして、舞子さんに御稽古やなとり資格の有無や、三味線についてお話出来た。
演舞に九州や京都の影響ががあるのは、北前船で栄えた酒田港ならではと言われる。
竹岡夢二の美術館も併設されて、美人画の見学が出来た。
このような繊細な日本的な芸能や美術的センスを、メディアは無視を続けて日本人は良さを忘れてしまい、外国人観光客の方が良さを理解するとはおいたわしや~。
鬼滅の刃好きならば、行くべき世界観だった。
出羽国の歴史考察をしてみた。
山形県には九州以外で唯一の南州神社(なんしゅうじんじゃ)がある。
北前船は江戸時代の昔から酒田港から九州にも回船していた。薩摩藩の西郷隆盛を祀る南州神社。
幕末の頃に大政奉還後にも、江戸市中取締まりを担う譜代大名庄内藩が預かる新徴組への江戸市中で薩摩藩が預かる者の挑発の攻撃が続き、庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き打ちを決行した。
薩長の討幕の仕上げの挑発に乗り、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争の切っ掛けを作った。
奥羽越列藩同盟は旧式装備で、アメリカ・イギリスの最新銃を装備した新政府軍に敗北をしたが唯一、豊富な資金でフランスの最新式の銃を装備した、精鋭揃いの庄内藩の破軍星(逆北斗七星)を背負う酒井玄蕃の二番大隊は強かった。その後、奥羽越列藩同盟の秋田藩と新庄藩の同盟軍の寝返り、会津藩の敗北で庄内藩は降伏した。
賊軍の処遇を甘んじると思いきや、新政府軍の西郷隆盛の寛大な処遇により甘い処罰に感銘を受けた。
そして、その温情裁定から西郷隆盛を祀る南州神社を建立した。
歴史的には実はその更に前の江戸時代から、薩摩藩と庄内藩は関係があった。
江戸時代中期に薩摩藩は商人候補者を全国から募集をして、山形の庄内藩の商人が選ばれ薩摩藩で密貿易などで、財を成した長い歴史がある。既に両藩にネットワークが出来ていた。薩摩藩島津家から新庄藩へ御輿入れをした姫様がいる。
※このオカルトはフィクションです。
「東国の古の星の記憶――譜代名門・酒井家の歴史に潜む平将門の因果」
これは酒井家がそれだけ徳川家に信頼され、東国の霊的守護を任されるほど尊い家柄だったという証拠かもしれない。
平将門は父親の遺産の奪う、叔父らの横領から平将門は争った。
同族で争いした暴れ者ではなく、将門の叔父から領地を取り戻す将門は被害者側だった。
それが拡大し、破竹の勢いで関八州を制覇し新皇を名乗り賊軍となった平将門は妙見信仰していたが敗北した。これが初の武家政権の起こりとも言えた。
北極星という星の仏様の妙見菩薩について、興味が沸き星座の神々に想いを馳せた。
北斗七星と言えば近年の俗説の一つに過ぎない、「平将門の江戸の北斗七星の結界」が大昔からの既成事実のように語られているが、そのスポットの創建年代を調べればこじつけが過ぎる上、そもそも平将門を正確に把握する気も無いのか、平将門と相反するその北斗七星上の敵側スポットなどは、迂闊に平将門を推しで北斗七星巡りをして
間違って訪れてしまうと、碌な事が無いであろう。
次は、山形県と秋田県を跨がる鳥海山がある秋田県にかほ市象潟(さきかた)に向かった。
鳥海山は活火山で山形県と秋田県の県境を、跨がる標高2236mの新山です。
出羽富士とも呼ばれ山頂は山形県飽海郡游佐町に、出羽国一之宮である大物忌神社の本社が鎮座する。
その麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が二ヶ所鎮座しており、その一つの大物忌神社蕨岡口ノ宮は例大祭が、5月3日い大御幣祭が行われ、もう一つの大物忌神社吹浦口ノ宮は5月4日、5日に吹浦まつりが行われる。
御祭神は大物忌大神(オオモノイミノカミ) 月読命(ツクヨミノミコト)は月山神。
創祀は欽明天皇二十五年 西暦564年頃の歴史がある。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が鳥海山に天の鳥船で降臨し天から授かった、十種の神宝が
物部氏に伝えられたと『物部文書』などに記されている。
古事記や日本書紀では、大阪の河内に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は降臨したはずなのだが秋田にも降臨の伝承が有る。
物部氏は蘇我氏との闘争(587年の丁未の乱)に敗れ物部氏の発祥の東北の秋田・鳥海山に逃げ延びたという説がある。

その鳥海山の歴史は約2500年前の、紀元前466年の冬に山体崩壊を起こし象潟岩屑を起こしに象潟平野(にかほ市)方向に25kmの長さで流れ込んだ。
土砂は5分で到達し、これにより宮城県の松島の様な湖である八十八潟に浮かぶ数多くの小島の九十九島が発生した。

現在は宮城県松島市日本三景松島と秋田県にかほ市九十九島(旧・象潟さきかた)は全国初の夫婦町です。
なんとか、日没前に秋田県にかほ市象潟(さきかた)の道中が、出来そうだが曇り始めた。

早朝の山形県の出羽三山神社詣りから酒田市を巡り、秋田県にかほ市象潟に夕暮れ前に高速道路移動して到着した。
サイバー大八車は伊達じゃない!昨日訪れた館山城・米沢城も伊達じゃない?
じゃないの意味が、肯定なのか否定なのか理解が難しい。
道の駅象潟で鳥海山の歴史を見学した。
現在は景勝地で、国指定天然記念物の九十九島は道の駅「ねむの丘」の展望室から一望することが出来る。



松尾芭蕉専用道路ではなく、順路案内のナビライン。
松尾芭蕉がにかほに訪れた 元禄2年(1689年)6月の時から、江戸時代後期に文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時ごろ)出羽国を中心とした津波を伴い発生した大地震でにかほの海に浮かぶ九十九島は、水面の潟から地表に隆起した。


異世界の様に生まれ変わった現在の九十九島への、羽越本線の踏切は遮断バーの黄色と黒色の模様が、先程の道中の山形ァの後だと漫画アキラの天変地異のクラスの力を、
封印した場所への、エレベーターの黄黒の模様じみている。
自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いたのだ?
④さんぽみち共通コースから見学した。




松尾芭蕉の一行は、奥の細道の道中で1689年(元禄2年)6月に蚶満寺(かんまんじ)に滞在した。

芭蕉に象潟は「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と評される。

「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠まれている。
雨に濡れる合歓(ねぶ)の花の美しさを、中国の薄幸の美女・西施(せいし)が憂いに沈んで眠っている様子に重ね、象潟の哀愁漂う絶景を称えた。
松尾芭蕉は将来に象潟で起きる不穏な空気を詠み、将来の災害を予言していたのか?

お前は今まで見た芭蕉像の数を覚えているのか?無理ィィィィ!と言う位に、全国に無数に有りヒンメルならそうした像よりも多い、松尾芭蕉像の数は日本一ィィィ!約2000体位あると言われる。
追記 この記事の作成後日に奥の細道最北の地のにかほの、三度笠魔法少女に稲庭や稲にちなむ「いなよ」と、命名した日の夜に千住の芭蕉像がある場所に行った。元禄2年(1689年)奥の細道の起点で、松尾芭蕉が深川から隅田川を舟で上り、千住大橋の近くで陸に上がって長い旅へ歩み出した、矢立初めの地(やだてはじめのち)その千住のやっちゃば(青物市場)で使われていた本物の石畳が今場所に移設されて像の周りに敷き詰められている。
松尾芭蕉像を日光街道自転車旅の時は写真を撮らなかったのだが、今回やっと撮れました。

おわかりいただけただろうか。
スマホカメラの撮影時の乱反射によるゴースト・フレアを。
奥の細道で一緒に出発した門人の河合曽良(かわいそら)は此処にかほの蚶満寺に滞在後に酒田に向かい、大垣を目指す芭蕉と別れ芭蕉は奥の細道の一人旅をした。 この日はこれで道中は終了して、珍しくホテルに泊まりポテチを食べた。

もう一つの旧ブログの、「みらい三度笠の道中ブログ」の美濃路自転車旅で、松尾芭蕉の奥の細道の終着地の美濃路の、大垣宿について書いてあります。
続く。