☆自転車道中は本当にあった濃い話ですが、オカルト等はフィクションです。
氣 東海道五十三次自転車旅の本当の完結編シリーズ 名古屋編
佐屋街道自転車旅 (さやかいどうじてんしゃたび)

庄内川 万場の渡しのあった付近
明治六年には佐屋川は川底に土石が堆積して川底が上がり、川船の運航が困難となり
木曽川改修や川筋の付け替えにより、佐屋川は廃川となり佐屋街道は歴史を終える。

尾張名所図会 佐屋宿 佐屋川 佐屋湊 三里の渡し (着色した)
佐屋街道(さやかいどう)自転車旅 シェア電動アシスト自転車の道中記
2024年7月の旅
佐屋街道は東海道五十三次の熱田宿・宮宿から桑名宿までの、約36kmの
熱田宿宮宿・岩塚宿・万場宿・神守宿・佐屋宿・佐屋湊(約24km)からの川船で桑名宿まで(約12km)六里と川路の三里の渡船の佐屋街道は、江戸時代は七里の渡しの脇往還道であった。
佐屋街道は古くは中世の東国と京都への鎌倉街道の一部で、萱津宿(かやつじゅく)
(愛知県あま市下萱津池端)から津島を結ぶ津島街道の津島下街道と呼ばれ
江戸時代には佐屋街道と呼ばれ、東海道佐屋周りや、佐屋路とも呼ばれた。
徳川家康が慶長20年4月大坂夏の陣で、大阪へ船で出兵し勝利した道が
佐屋街道であった。
慶長六年(1601年)に江戸時代の伝馬制により始まった、七里を海路で渡る
七里の渡し。
しかし、天候により海が時化で、荒れ欠航の場合もあり七里(約28km)の海路は犯罪に巻き込まれる危険性があった。
寛永十一年(1634)の三代将軍家光の上洛により、佐屋街道は整備された。
安全な佐屋川の三里の渡しの佐屋街道を、多くの人々が利用した。

熱田宿。宮宿の佐屋街道起点石道標

熱田宿・宮宿 七里の渡し船しの湊 2021年YouTube東海道五十三次の徒歩道中より

桑名宿 桑名城 蟠龍櫓(水門総合管理所)の朝日 2021年東海道徒歩道中you tubeより

桑名宿の七里の渡し湊 2021年東海道徒歩道中 you tubeより
七里の渡しで海路を船で渡ると、伊勢国一の鳥居のある桑名宿の七里の渡し湊に着く。
(三重県桑名市東船馬町)

右は中世・江戸時代の佐屋川 左は明治時代 佐屋川が廃川になる
みらい三度笠は東海道五十三次の道中を約12年間で自転車で3回、徒歩で1回完走したが、佐屋街道の道中は何回行っても未踏で、佐屋湊から三里の渡しの向こうの岸の
桑名宿までを渡れない!五街道を制覇するまで良い道の佐屋街道は最後まで
取って置く!?
この時の2024年7月のみらい三度笠はテニス肘を患い、重い輪行袋を運べないので、今回はシェア電動アシスト婦人車での、佐屋街道の初の道中となった。
一度も通った事が無い、東海道の佐屋街道をレンタル電動アシスト自転車で走り
「東海道五十三次自転車旅の本当の完結の京都道中」から、その日に名古屋に移動して、明日の名古屋の佐屋街道の道中に備えて、名古屋の鰻屋で、ウナギのひつまぶしを食べて栄氣を養う事にした。

チャキチャキの江戸っ子のみらい三度笠にも、タレの味が私の好みの関東風で
美味しかった。
焼き方はウナギを蒸さない、関西風なのでそのままで食べると身が固く感じる。
出汁でひつまぶしにすると、良い感じの柔らかさになり実に美味しい。
その出汁も良いお出汁で旨く、小葱共々お代わりをしてしまった。

高級なお茶漬けみたいで、旨い出汁を使い過ぎて水分を取り過ぎた。
やはり江戸っ子みらい三度笠は蒸して柔らかい関東風の方が、好みだと思った。
ご当地グルメとしては、西側の蒸さないウナギを食べるのも道中の楽しみだが。
京都から名古屋の宿に戻ると、泊まった宿で男の声が聞こえたが
「今日泊まった奴の事を教えろ」と部屋の薄い壁から個人情報保護法など無いであろう
宿主との、妙な会話の声が聞こえたが気のせいだろうか。
その声の主は後ろめたい所が有るから、ビクビクしてるのかと思った。
翌朝は早起きをして、前日にスーパーで買ったおにぎりと納豆を朝食にした。
愛知県名古屋市は毎相変わらず、自転車で車道を走ると法令順守で走行をしても威嚇でクラクションを鳴らすなど、車の走り方が愛知県名古屋市は毎度危ない。
佐屋街道の道中 東海道五十三次自転車旅の本当の完結編
ここから始まり。

江尾時代末期の佐屋街道の図
名古屋の宿をシェア自転車で出発して、まずは2022年五月の美濃路自転車道中の
到着地点の宮宿・熱田宿に再び訪れた、今回は美濃路で熱田神宮を御詣りした。

熱田神宮鳥居
熱田神宮
主祭神は熱田大神
熱田大神は、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代
(みたましろ)御神体とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)
三種の神器の草薙剣を奉安する尾張三宮

上知我麻神社
上知我麻神社
主祭神 乎止與命 (おとよのみこと)
熱田の知恵の文殊さまで,
知恵の神様として崇敬を集めています。
宮簀媛命(やずひめのみこと)の父親にあたる。
宮簀媛命は日本武尊(やまとたける)の妃であり日本武尊の亡き後に、託された
三種の神器の草薙剣を熱田の地に留め置き、熱田神宮の起源となりました。
神宮の境内の上知我麻神社をお詣りした。
織田信長は清州城から、上知我麻神社にて願文で幸若舞を奉納してから、
今川義元の軍勢が二万五千人、織田軍が三千人の桶狭間の合戦1560年6月12日
(旧暦永禄3年5月19日)5月17日に出陣した信長は逆転勝利した。
そのお礼に寄進をした、信長塀が熱田神宮の境内にある。
その当時の上知我麻神社の位置は、現在の熱田神宮の境内ではなく美濃路と旧東海道が
交わる場所に上知我我麻神社は祀られていた。
お詣りをして、かつての上知我麻神社であった場所に向かい、まずはみらい三度笠の
旧ブログの2022年の美濃路自転車道中以来、2年ぶりの2024年7月に
名古屋市内のシェアサイクルで、朝の七里の渡しを訪れた。

七里の渡し 2024年7月
その次は、源太夫社(げんだゆうしゃ)とも呼ばれた上知我麻神社の場所を訪れた。
東海道五十三次の道中で4回目、美濃路の道中で5回目、今回の佐屋街道道中で6回目
の来訪である。この看板はその向かいの場所となる。

源太夫社(上知我麻神社)と東海道説明版
現在は焙烙地蔵尊(ほうろくじぞうそん)を祀るこの場所は、近年の戦火で
上知我麻神社が焼失して昭和24年に熱田神宮境内に移転し、上知我麻神社があった
この場所に付近に江戸時代からあった焙烙地蔵も戦火で焼失して、この場所に祀られている。
戦国時代は知立市は永見氏の領地であったが、今川義元が訪れ桶狭間の合戦の2日前1560年6月12日(旧暦永禄3年5月19日)5月17日に織田軍と前哨戦をした地である。焙烙地蔵は元は、東海道五十三次の39番目の宿場の知立宿(池鯉鮒宿)三河國重原村の草むらの中で倒れていた。
それを三河の焙烙売り商人が見つけ、両側に積んでいた焙烙の片側が売れたので
左右の安定の重石のとして、ほうろく地蔵を積んで熱田まで運び
焙烙を売り尽くしたので、焙烙売りは熱田の海辺の芦原に地蔵を捨てた。
地元の人が不憫に思い動かそうとすると動かず、掘り起こすと台座が現れたので
掘り起こしお堂を立て安置し手厚く祭られたのが、焙烙地蔵の始まりだという。
熱田の上知我麻神社の地にその地蔵が辿り着き、この地に留まる理由の謎が
その前哨戦にあるのかも知れないと、みらい三度笠は勝手に想像してしまう。
焙烙(ほうろく)とは蓋の無い平たい鍋のような形の、盂蘭盆の行事や食品を
炒る為の器や、素焼きの平皿などの事を言う。

ほうろく地蔵尊

信長攻略人生大逆転街道への訪問シリーズ 2024年度版は草刈り中
信長攻略 人生大逆転街道の道標がある。
草薙剣を祀る熱田神宮の御詣りの後に、現在はほうろく地蔵が祀られる場所で
かつて上知我麻神社(源太夫社)があった向かいの場所で、草刈りの途中に遭遇した。朝なので誰もおらず、縁起が良いかも。
美濃路を進み、遂に美濃路と佐屋街道合流地点に到着をした。
此処からが、佐屋街道の起点となる。

佐屋街道 道標
金山新橋南交差点には、文政四(1821)に建てられた道標の石碑があり文字には
東 右 なこや木曽 海道・南 左 さや海道 つしま道
西 右 宮海道 左 なこや道・北 文政(四)辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中
と彫ってある。
熱田から佐屋街道の始まりは、ほぼ直線的で尾頭橋で堀川を越えて、高速道路と
東海道新幹線のガードを潜るとすぐ近くに、唯然寺に津島街道一里塚の道標がある。
五女子一里塚とも呼ばれ、長者の七人娘が嫁ぎ子孫繁栄をしていった事から
その名が言われる。嫁ぎ先には二女子、五女子といった地名がある。
この津島街道一里塚の位置は熱田宿・宮宿の一里塚から計測した距離の一里塚だと
実際に走行をして思った。
佐屋街道の起点からだと、1里に満たない距離のような気がした。
佐屋街道の三里の渡しは江戸時代だが、古より津島街道で津島神社への道であり
江戸時代に東海道が整備される前には存在していた天王川の、4里の渡しがあった。
津島街道は古い鎌倉街道と同じ上路と、下路の2つの道がある。
佐屋街道は、津島街道の下路と増田追分までほぼ同じ道の為、津島街道一里塚が
佐屋街道一里塚と混在している。

唯然寺の津島街道一里塚
近鉄名古屋線の烏森駅ガード下を通過する。
そのガードから約1,6km先の右側の歩道に目立たずに、佐屋街岩塚宿の
佐屋街道一里があるが自転車は原則左側車線走行なので、気が付かなかった。

近鉄名古屋線 烏森駅ガード下
初めの宿場の岩塚宿は岩塚の佐屋街道一里塚付近から始まる。
旧道や史跡の石仏を訪れて、コケや汚れが多いとケルヒャーなどで高圧水洗浄して
綺麗に掃除してしまたい衝動に駆られるが、石も古いと硬度が落ちて脆くなっており
彫った文字や造形した部分は高圧洗浄で、破損してしまうかも知れずご利益か罰に
なるか分からないので無理だと思う。

岩塚宿
岩塚宿の万場の渡し付近になると、佐屋街道沿いに石碑が増える。

佐屋街道は渡しがあった庄内川の土手への道
この道の先に万場の渡しがあったが、現在は庄内川を超える為に万場大橋に向かう。

ネコが前を歩いていく
佐屋街道の渡しから現在の橋へと右に曲がると、石碑に居た猫がみらい三度笠の前に
ねこが出て来て、同じ七所神社の方向に前を歩き始めた。
向こう岸川の万場の渡し跡へ、現在の庄内川に掛かる橋を渡る為に七所神社への参道へ曲がり進むと、みらい三度笠の前に来たネコは、途中の家の壁の隙間に消え去った。
(略して、きねこさ?)また鳥居の前で変化が現れたのだろうか?

七所神社鳥居
七所神社
御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
高倉下命(たかくらじのみこと)
宮簀姫命(みやすひめのみこと)
乎止與命(おとよのみこと)
境内に三つの古墳があり、岩塚という地名の由来である。
尾張三大奇祭り「きねこさ祭り」が行われる。
鳥居の内側にある衝立は、蕃塀(ばんぺい)と呼ばれこの地域の神社でよく見られる。
岩塚宿と隣の万場宿は合宿で、月の15日ごとに宿場業務を交代で行っていた。

庄内川を渡る
万場大橋で庄内川を渡る。

庄内川
江戸時代は庄内川のこの辺を、万場の渡し船が往来していた。

万場の渡し跡
万場宿の万場の渡し跡には、秋葉社と常夜灯がある。

万場の渡し説明版
分かりやすい説明板が佐屋街道には多く、尾張名古屋の歴史が分かりやすい。

常夜灯
佐屋街道は大きい常夜灯が多いが、夜には今も光かるのだろうか。
万場の渡しから初めての、曲がり角に國玉神社・八剣社合殿が祀られている。

國玉神社・八剣社合殿
國玉神社・八剣社合殿
御祭神
大物主命(おおものぬしのみこと)
日本武命(やまとたけるのみこと)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
草薙御剣神霊(くさなぎみつるぎのしんれい)
この付近に、万場宿の高札場があった。

光圓寺

東海道五十三次道中で見たようなの
更に左に曲がる路面に何か怪しいタイル絵があった。

佐屋街道ルネッサン~ス!
今だに東海道五十三次の道中でよく見る、東海道ルネッサンスの弥次さん喜多さん。
その東海道の歴史に埋もれた、衝撃の佐屋街道バージョン弥次さん喜多さんを発見した。

砂子橋
新川を砂子橋で渡り右に曲がると万場宿の高札場(こうさつば)の碑があり、
さらにこの道を進む。

高札場跡
環状道路の高速道路の先に佐屋街道の、3番目の千音寺の一里塚の碑がある。
岩塚宿の2番目の一里塚は、見当たらない模様だ。

千音寺の一里塚跡
福田川、小切戸川を2つ越えて七宝町の交差点には、七宝焼原産地の碑がある。
蟹江川に掛かる2本の橋の奥の弓掛橋の先に、義経弓掛の松が有るので探したが。
その松は現在は五代目で、私有地の中にあるので確認は出来なかった。
由来は兄の源頼朝の命により、京へと向かう源義経の軍勢を休ませこの地の松の木に
弓を掛けた事から。

奥の橋が弓掛橋
神守宿の始まりにある、神守の一里塚は熱田から4番目の一里塚。
佐屋街道で北側の片側だけ現存している、神守の一里塚(かもりのいちりつか)
となる。

神守の一里塚
津島下町の交差点を右折し、神守宿(かもりじゅく)の穂歳神社(ほうとしじんじゃ)の祭礼の神守の山車の中町車が、収納されている山車蔵が建っていた。
穂歳神社の御祭神は大歳神。
尾張津島秋まつりには、神守の上町と中町と南町から山車が繰り出す。

からくり人形が山車の上で芸を披露する

中町車を収納している山車蔵

かつては津島下街道とも呼ばれた佐屋街道
この道の突き当りの左角は、神守の宿の本陣。突き当りに神守の宿跡の碑があり、間の宿の神守の宿の中心地であった。

神守宿
この神守の宿後の碑の右側に憶感神社(おっかんじんじゃ)が祀られている。
御祭神は龗の神。雨を降らせる竜神様。
憶感神社の祭礼の山車の上町車の収納される、山車蔵がある。

神守宿本陣跡
左の建物は神守宿本陣跡。

日光川を渡る日光橋は、橋を架けることが難しい江戸時代にも橋が架かっていた。
日光橋を渡ると旧日光橋の石柱がある。




日光橋常夜灯
日光橋から津島下街道と同じ道だった、佐屋街道を〇亀製麺所あたりで津島下街道から佐屋街道の分岐点で左折すると増田追分とも言われる津島街道追分・鳥居跡になる。

津島街道追分
東面・右 つしま天王みち 北面・左 さやみち 南面・あつた なごや道
と石道標に彫られている。


右の石柱は昭和三十四年(1959年)の伊勢湾台風で破損した、津島神社一の鳥居の柱の部分が残っている。
名鉄尾西線・名鉄津島線の手前の道を南下して、日比野駅を過ぎたあたりで
踏切を通過する。

名鉄尾西線・名鉄津島線の踏切

佐屋街道の石碑
この佐屋街道の石碑は、愛西市の文化財に指定されている。

くいな塚への石碑
くいな塚への案内の石碑には、くいな塚これより一丁と刻まれている。
佐屋街道沿いにあり、松尾芭蕉の句碑があるくいな塚に行った。

水鶏塚
水鶏塚(くいなつか)「水鶏鳴と人の云へはや佐屋泊」と句碑に刻まれている。芭蕉が水鶏塚は元禄七年(1694)、江戸から故郷の伊賀の国への帰郷の途中に、佐屋の門人であった素覧亭に滞在した時に読んだとされ、芭蕉の40回忌に孫弟子たちが宿泊地の跡に句碑を建てたという。 それがくいな塚の由来となった。

芭蕉の句碑

佐屋船場道標
佐屋船場道標は佐屋湊への道標は移設されている。 左 さや舟場道と彫られている。

キコクの生垣説明版

キコクの生垣
説明板のキコクの生垣の場所はこれではなくて、ブロック塀の隙間から見える
キコクの方だった。

尾張名所図会 江戸時代当時の佐屋湊の風景

佐屋代官所跡
此処あたりが三里の渡しの佐屋湊で、佐屋川が流れ桑名宿まで川船が行きかい
繁栄していた過去が信じられない程、その痕跡を感じない今は静かな住宅街だった。
当時はここから更に三里の佐屋川の船旅だったが、現在の地面のアスファルトをなぞる様に電動アシストシェアサイクルで、桑名まで走っても桑名宿までは川で宿場もないので、佐屋湊跡の到着で、佐屋街の道中は終りにした。
東海道五十三次自転車旅本当の完結編 佐屋街道
みらい三度笠の東海道五十三次の佐屋時街道の電動アシストシェアサイクリング道中は本当に完結した。
しかし道中は、まだ終わらない。
今回の道中の始まりの京都で、素戔嗚尊を祀る八坂神社の祇園祭が催されている最中
だった。
祇園祭の起源は疫病退散の為に始まり祇園御霊会で、疫病を広める神の牛頭天王を祀り鎮める御霊会が催された。
今回はその京都で日本三大怨霊と言われる、二柱の平将門公と菅原道真公の社を参拝した。御霊信仰の道中の締め括りは、津島神社の参道である津島街道上路に行く。

かつて佐屋川の上流にあった、天王川は天王川の四里の渡しがあった。
天王川は佐屋川よりも先に、川が無くなった。
津島街道の尾張津島神社は八坂神社と同じく、素戔嗚尊そして古くは牛頭天王を祀る。
津島街道の上街道、清州市の新川橋で美濃路へ合流し名古屋への帰路の道中となる。