みらい三度笠の旅道楽ブログ 

みらい三度笠の道中記

                    みらい三度笠の旅道楽ブログ

三峯神社に初のお詣りをした。

 ※このブログはフィクションです。

 実はこの記事の制作を途中でなまけて放置していた。しかし最近は期せずして辿り着いた先の隣が三峯神社の分社とか、初見の店に入ると座った席の前に、三峯神社の文字が書いてあったり。などの三峯神社絡みの偶然が続くのでご期待に?応えましょう。

 

 2025年5月に三峯神社を初参拝しました。

三峯神社(埼玉県秩父市)は、

御祭神として(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)を日本武尊(やまとたけるのみこと)がお祀りした事が始まりとなります。

この地で日本武尊を導いた白狼(オオカミ)を大口真神(おおぐちのまがみ)として祀る、非常に厳格で霊力を持つ御眷属です。害獣除け、盗賊除け、防火、災難除け、があります。ここは、生半可な気持ちや、霊的な準備ができていない者を寄せ付けない(=来ようとしてもトラブルが起きて辿り着けない)ことで有名です。

まずはみらい三度笠のその経緯を語ります。

① 2024年の旅は御霊信仰の道中

このブログの道中の始まりは、私が東海道五十三次の自転車道中を始めた、切っ掛けとなった京都での平将門公と、そして菅原道真公の御霊信仰を詣でる巡礼の道中でした。
伊豆大島:源為朝や役小角など、流刑や修験道に縁の深い孤島から始まります。
修験道の祖の役小角は伊豆より、往来して三峯で修業したと言われる。
京都神田明神(平将門公):将門公の首が晒されたとされる地であり、彼の無念と霊力を鎮めた重要な拠点で、平将門を供養した空也上人と後の六波羅蜜寺という平家の一門の屋敷が軒を連ねる場所に繫がります。
北野天満宮(菅原道真公):天変地異をもたらすほどの強大な雷神(天神)となった道真公の神霊に触れました。
六波羅:六波羅蜜寺は平家一門の邸宅が並び栄華と没落の地であり、平家と平将門は因果があり、ドクロ原とも呼ばれあの世とこの世の境界(鳥辺野の入り口・鳥葬)冥府としての霊的な意味を持ちます。 
熱田神宮(尾張国):三種の神器「草薙神剣」を祀る、熱田大神および尾張氏の聖地から出発します。
佐屋街道と津島街道:津島牛頭天王(スサノオ)を信仰し、織田信長とも縁が深い尾張の重要ルートを辿ります。
② 2025年の尾張から常陸へ繋がる「織田氏・尾張氏」の因果
続く旅は、日本の統治や歴史を大きく揺るがした「王権と星の神々」のつながりを解き明かす道中でした。
出羽国 山形県の出羽三山神社を初の詣でと、開祖の蜂子皇子が都の京の由良湊から、舞鶴市の八乙女の由良に訪れた。
常陸国の星神と平将門:妙見信仰(星神)を信奉した平将門公と、東国のまつろわぬ神(天津赤星・香香背男など)の因果、そしてそれらを統べる尾張氏(熱田の神)と物部氏の深い結びつきを回収します。
結論:なぜ「今」三峯神社に呼ばれたのか?
みらい三度笠が学生時代からずっと行けなかったのは、拒まれていたのではなく
「まだその段階(タイミング)ではなかった」からです。
2024年の旅で、伊豆大島という大地の火山のパワーと、流刑された役小角の修験道の歴史の影に隠れた強大な霊力と平将門公や菅原道真公の御霊信仰や、三種の神器の神霊のエネルギーと尾張氏、織田信長の関わりを体験し、
2025年の旅で、出羽国の蜂子皇子、尾張氏、織田信長、東国の星神、そして平将門へと繋がる東国の常陸国と西国の巨大な「因果の糸」を自分で辿った。
みらい三度笠の道中は、この後も歴史の謎の伏線回収となっていた。
 

三峯神社の名の由来は、三つの峰が高く聳えるのを称え、三峯の呼称が生まれた。

日本武尊が御祀りした宮を三峰宮(景行天皇)日本武尊の父君と伝わるのが三峯神社の名の由来です。 

三峯山脈(雲取山、白岩山、妙法ヶ岳など)は、「三峯神社」の由来や日本武尊の伝説が残る山域です。 
三峯の周辺地域や、日本武尊の東征伝説にまつわる旧国名には以下の4つが挙げられます。
武蔵国(むさしのくに):三峯神社が鎮座する現在の埼玉・東京・神奈川エリア。

甲斐国(かいのくに):日本武尊が三峯山へ向かう際に通った現在の山梨県。

上野国(こうずけのくに):同じく日本武尊が巡ったとされる現在の群馬県。

上総国(かずさのくに):日本武尊が東征の折に船上から山々を望み、「三峯山」と名付けたという伝説が残る千葉県エリア。

 

その今回の道中はサイバー大八車で走り、三峯付近の道の駅で車中泊をしてから、

早朝詣りで奥宮まで行く事にした。

賑わいの消えた静まり返った深夜の道の駅で、深夜に寒さから尿意に目覚め寝ぼけてトイレに行く。秩父の澄んだ空気の夜空に星が都内より多く輝いていた。

イメージ図

建物の屋根にツバメの巣があり、子ツバメ達が巣の外にお尻を出し自分のフンで巣の中を汚さないようにして寝ていた。本能の行動なのだろう。隣に吊るされた板の上で親ツバメが昼間のヒナ達の餌探しで疲れ果て、小首をかしげるポーズで寝ており可愛いので起こさないように、そっと通過した。

道の駅を早朝に出発をして、国道140号秩父往還の道を走ると三峰神社の参道があり一の鳥居があった。

この参道は登山装備が必要との事で、そのまま車で国道を進み秩父湖の二瀬ダムが見えた。

荒川もこの上流の秩父は、源流に近く水がとても綺麗だ。

私は荒川サイクリングロード歴は20世紀からだが、荒サイを走ると何故か気分が落ち込み鬱気味になるので今は行かない。

多摩サイ、江戸サイではそんなことは無いのだが何故だろう。学生時代に雲取山を自転車の愛車ブリジストンクロモリ車でパスハンしてみようと思ったまま、あっという間に時は流れまくり2026年になっており光陰矢の如し。今やパスハンターを知らない者が増えた。

山岳登山道系サイクリングをしていた学生時代は奥多摩周遊一周や、陣馬山からの登山道を高尾山まで根道をガタガタとリムをゆがませて走り、都内の自宅往復を自走していた。

私が雲取山サイクリングを計画した頃には無かった、雲取山への登山道には平将門迷走ルートの看板が設置された。完全にフィクションであるが異世界物として興味深い。

近年は竈門炭治郎の故郷の設定が聖地としても、有名になっていた。

三峯山は神仏習合の修験道で熊野地方に似たこの辺りは、山脈の地層が3つの時代で形成されている。三峯神社の付近の地層は四万十帯の地層で白亜紀に付加し1億年前~6500年前。

奥宮のある妙法ヶ岳は秩父帯の地層でジェラ期に付加し2億年前~1.5億年前。

秩父線の終点付近は新生代の地層で1700年前~1500年前~50万年前。

 

私が三峯を知りながら、この地に動けなかった時は数十年だが、それどころでは無い時を超えた地層群が放つ威厳を感じる。

昨晩は降っていたが早朝に止んで晴れ雨に清められて、お詣りでは縁起が良い事だそうだ。

到着した早朝6時頃の三峰神社の広い駐車場は、まだ数台しか車は停まっていなかった。後で知ったが人気故に、駐車場は空き待ちで渋滞するそうだ。

三峯神社は明治時代の神仏分離令までは「観音院高雲寺」という修験道の寺院として神社と一体で栄えた。

それは先月に初のお詣りした出羽三山神社に続き、修験道の聖地への参拝だった。

先程サイバー大八車で通過した秩父往還道国道140号線の、三峯神社表参道に一の鳥居があるので正しいカウントが良く分からない。

呼ばれなければお詣り出来ない三峯神社と言われるが、私の場合は長い道中の最後に来るべき神社であったかという事に気が付いた。忘れかけてた10代の三峯と雲取山への想いが蘇る。

早朝の雨が止み、朝露に濡れた新緑の奥宮の表参道口は心地良い空気が流れる

一の鳥居に着くとその近くにある石道標には左奥の宮と右 白岩雲取山と刻まれている。

周辺にクマや蜂や残雪の注意の警告が書かれていた。木の根の張出たマキ道の参道には、木にピンクのテープが巻かれ道に迷わないようにマーキングされていた。

見落とさないように、歩けば着くので助かった。

落ちている1.5m程の枝を杖にした。、最近は目撃情報が多くなったクマ対策の装備であるが、落ちてた木の棒を装備したお陰で、杖になりラクに登れる。

二の鳥居

二の鳥居は急勾配が始まる場所にある。

三の鳥居

三の鳥居は鎖場の手前の急勾配にある。

迷わないようにピンクのテーピングの目印がある。

四の鳥居は写真無し。勾配がきつくなる。

クサリ場の単管パイプの階段を上がる。

山頂の急な斜面の岩場は鎖に摑まり、1時間位で標高1332mの

妙法岳山頂にある三峯神社の奥宮に到着した。

奥宮に居た幼虫

奥宮の祠の前の地面に、綺麗な黄色に黒い粒粒の芋虫が居た。

ハバチの幼虫だろうか、不快感が無い姿だった。

奥宮だけに幼虫から羽ばたく蝶に、生まれ変わるという暗示だろうか。

奥宮

奥宮

御祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)

 

初の御詣りした。狛犬が御眷属の狛狼(大口真神)で小さい狛狼が山頂の敷地の石拝殿に居た。眺めが素晴らしくて感激した。

妙法岳の奥宮から三峯山を眺める

妙法岳の奥宮から、三峯神社拝殿の方を眺めるが木が深く建物は見えない。

周囲は遠くまで山脈が広がり続く、絶景のさわやかさ。下山の岩の急斜面の鎖場ではどうしても岩に手を着くので、手袋は必要だった。

その後の下山では軍手は無用なので、これから登る方に差し上げた。

下山して一の鳥居まで戻り、三峯神社拝殿に参拝に向かう。

シカとされたが、シカが見てもいた

 

早朝の到着に比べてかなり参拝者が増えており、此処に居なかった鹿達が居た。

三つ鳥居

とても珍しい三つ鳥居は、奈良の三輪明神大神神社の三つ鳥居も思い出す。

そういえば修験道の役小角は、奈良出身で三輪明神大神神社と所縁がある。

修繕したので白さが輝き綺麗だった。

随神門

随神門は江戸時代まで神仏習合で、仁王門と呼ばれ仁王像が置かれていた。

明治以降、廃仏毀釈などにより神社となり随神門となる。

此処から下り参道となり、再び本殿に石階段で登り始める。

拝殿と杉の木

拝殿の両脇に樹齢約800年と言われる、巨大な杉の木が聳え立つ。

拝殿

煌びやかで美しい拝殿。

平成24年2012年辰年に、突如現れたという拝殿前の石畳の龍神様です。

小教院は寺院で元文4年(1739)に再建された。

小教院

かつては三峯山高雲寺として、観音像が安置されていた。

現在はコーヒーハウスとなっている。みらい三度笠は早朝の奥宮詣りでお腹が空いていたので興雲閣で昼食にした。

五望天うどん

五望天うどんこの場所ならではのネーミング。更に椎茸丼を注文した。

椎茸丼

大きい乾燥シイタケの醤油煮をフライして、精進料理のようだがキノコ好きには肉厚のシイタケの触感が美味しく、キノピオにも作れない旨さだった。

自動販売機のデザインがお犬様

御眷属を祀る遠宮(御仮屋)をお詣りした。食事してからだけど先に奥宮行ったからという言い訳をする。

遠宮(御仮屋)

遠宮拝殿

遠宮 大口真神を祀る 初めて御詣りをしました。

お赤飯がたくさんお供えされていました。

御眷属様を祀る大口真神神社の裏は、木々の生い茂る急斜面。

力強い良い風が眼下に見渡す山脈を走り抜け、遠宮に吹き上がって来る豪快さと爽やかさを兼ね備え、木漏れ日の新緑の美しさを感じた。確かにそれは狼だった。

気になったのは手水舎の蓋がコンパネに見えた事です。もしそうならばホルムアルデヒドの問題が有るので、ホルムアルデヒドフリーの完全耐水合板T1やステンレスなどに交換して欲しいと思った。

奥宮遥拝殿

早朝の妙法岳の奥宮から見えた場所の、三峰山の奥宮遥拝殿に来た。

右側の妙法岳に奥宮が見える

右手に奥宮があるが社殿は全く見えないが、眺める山脈の豊かな自然にパワーを貰う。

三峯山の山頂の三度笠魔法少女うぐいす  イメージ図はフィクションです

今回は三峯山の山頂は知らなかったので、未踏の地となりました。

これで長年の夢が果たせました。



おしまい。

 

 

 

 

【尾張と常陸の繋がり】宇宙の歴史を伝える星宮社と、平将門の伝説が巡る天(そら)

東国の反逆児「平将門」と、謎の星神「カガセオ」の共鳴――尾張星宮社に刻まれた調伏の記憶
※諸説あります」「歴史の意外な一面をご紹介する読み物です」
 崩壊する律令制と「武士」の誕生

平将門公
10世紀、戸籍に基づいて国が直接税を集める「律令制」は完全に崩壊していました。
朝廷は地方統治を放棄し、実質的な権限を「受領(ずりょう)」と呼ばれる筆頭国司へ委ねます。受領は一定の税を京都へ納める義務と引き換えに、現地の徴税権を完全に掌握しました。
この仕組みは、現代でいう「現場への丸投げ」や「中間搾取」による格差構造そのものでした。受領(国司)たちは私服を肥やすため、現地の有力者(郡司や田堵)や民衆に対し、中央への納税分をはるかに上回る法外な重税を課したのも現代みたいです。
この不条理と治安悪化から自らの財産を守るため、地方の有力者たちが自衛のために武装を始めました。これこそが「武士」の発生の瞬間です。
 渦巻く怨念と「承平・天慶の乱」
中央政権では、藤原氏が要職を独占する摂関政治の独裁が進んでいました。それを抑えようとした菅原道真公は、謀略によって無実の罪に陥れられ、太宰府へ左遷。非業の死を遂げた道真公は強力な「御霊(ごりょう)」と化し、京都に恐ろしい祟りをもたらします。
京の中央が怨霊の恐怖に怯え、地方では受領(国司)への不満が極限に達していた。
平将門は桓武天皇の「5世の孫(玄孫の玄孫、または5代目の子孫)」にあたります。桓武天皇のひ孫にあたる平高望(高望王)が臣籍降下して平姓を名乗ったことで誕生した「桓武平氏」の血筋を引いており、将門自身も非常に高貴な出自でした。
平将門は京へ仕官したが要職は藤原氏に独占され、出世は叶わず将門の父・平良持(良将)の死を機に東国へ戻ると、親族に父の遺領の横領や縁戚関係を奪われており将門は対立した。
天慶2年935年に横領した国香・良正のとの戦闘になり殺害を機に激化し、叔父の平良兼らとの間で私戦が繰り返されました。
常陸国府炎上 繰り返される常陸国(ひたちのくに)の因果
939年(天慶2年)11月21日、平将門が常陸国府を襲撃し、常陸介・藤原維幾を捕縛して印鎰(国の印と倉の鍵)を強奪する前代未聞の事件が発生した。この行政権と財政権の強奪は、朝廷に対する明確な宣戦布告であった。
事件の引き金を引いたのは、常陸の住人・藤原玄明である。玄明は後に民衆の為の騒動の首謀者となる男であり、常陸の地で抗った星神カガセオの「まつろわぬ(服従せぬ)姿勢のようだった。常陸介の藤原維幾と激しく対立した玄明は、将門に庇護を求め、面倒見の良い将門は国法を無視して彼を匿った。
藤原維幾は藤原玄明の引き渡しを要求したが、将門はこれを断固拒絶。さらに常陸国府には、将門の宿敵である国香の息子の、平貞盛が身を寄せていた。平清盛の先祖である。火蓋は落とされ将門は1000余りの兵を率いて常陸国府へと進軍する。
藤原維幾の息子・藤原為憲と貞盛は、およそ3000人の国軍を動員して迎撃。数の上では圧倒的な官軍が、常陸の地で平将門・藤原玄明連合軍を迎え撃った。しかし、激突の結果は将門軍の圧倒的勝利。国府は占領され、国衙は激しい炎に包まれた。貞盛と為憲は命からがら逃亡したが、維幾は捕らわれの身となり、戦いは「まつろわぬ者たち」の勝利に終わったのである。
これまで平氏一族の私闘や武蔵国の調停に留まっていた将門の戦いは、この常陸国府襲撃を境に、朝廷の根幹を揺るがす「国家への反乱」へと完全に変貌した。玄明が引いた引き金により、将門は他国の国府を次々と蹂躙し、やがて「新皇」として関八州(かんはっしゅう)相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国を瞬く間に制圧した。
東国で蜂起した平将門の乱と、瀬戸内海で同時期に起きた藤原純友の乱。これらは合わせて「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と総称され、朝廷を大きく揺るがしました。 
数百年越しのリベンジか――カガセオに続く常陸国での将門
かつて常陸国(茨城県日立市大みか町)の「宿魂石」に封じられた、まつろわぬ悪神の星神、天津甕星(アマツミカボシ/カガセオ)
同じ東国の地から、カガセオの次に現れた平将門は、数百年もの時を超えて「東国の誇り」を取り戻そうとした存在でした。カガセオの後に来た将門は、自らの代わりに中央へリベンジを果たしてくれるような、いわば「期待の星の後輩」とも言える存在だったのかもしれません。
 尾張・星宮社での「将門調伏」
しかし、危機感を募らせた朱雀天皇は全国の寺社に、将門調伏の命を下す中で、
かつてカガセオ(天津加賀是尾)の信仰が東国から勧請されていた、尾張国の上下知我麻社(かみしもちかましゃ/当時の星宮社の地)。この信仰のラインを逆利用したのです。
隕石が降ってきたとされる地に637年に創建された「星宮社」へ、熱田神宮から神輿が渡御(とぎょ)され、国家規模の将門調伏の祈祷が執行されました。
 飛び去る首と、美濃路の「御首神社」
寺社の調伏の祈祷と朝廷軍の前に、将門はあえなく敗れ去ります。
しかし、その怨念は死しても衰えません。京都で晒し首となった将門の首は、夜空を貫き、故郷である東国へと飛び去りました。その御首は各地に伝承を残す程である。
この時、かつて中央に服従しなかった「まつろわぬ神」の系譜を引く隼人神(あるいはその神官)が、天空を飛翔する将門の首を射落とした(あるいは打ち落とした)とされています。
こうして首が落ちた美濃路の地、大垣に創建されたのが御首(みくび)神社」です。一方、調伏の舞台となった尾張の地にも将門の首塚が遺されていますが、これは近年に整備されたものと伝わっています。
東海道五十三次の掛川宿にも藤原秀郷が埋葬し供養した、将門と家臣の首塚の十九首塚が祀られる。
かつて中央に抗った星神カガセオの影と、新時代を切り開こうとした平将門の命運は、この尾張と繋がる美濃路道中で、地続きで深く交錯しているのです。そして美濃路と繋がる東海道五十三次で東京の日本橋近くの将門塚へ繋がる。その近くの常盤橋から日本橋を起点に国道6号線の江戸通りが水戸街道に変わり、国道6号を進むと茨木県日立市の大甕神社へ繋がるラインとなる。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は物部氏の祖先で、饒速日命と同一神の天火明命の10代子孫が乎止與命(おとよのみこと)は尾張氏祖先であり、物部氏と尾張氏には繋がりがあり、東国の香香背男(天津甕星)が、尾張の星宮社で祀られる理由かもしれません。
父の乎止與命で娘の宮簀媛(みやずひめ)は、熱田神宮の創建に深くかかわる日本武尊の妃。
このブログの前の記事の、佐屋街道自転車旅で熱田の記事を記載してあります。
 
饒速日命が天孫降臨する時の船団に、お供の中に天背男命(あませおのみこと)がおりこれが香香背男(天津甕星)の星の神の、ルーツではないかと考察されている。

古墳時代6世紀の笠山台地と熱田台地
この結果、将門の追討を執行する「無私の力」へと天津甕星(カガセオ)は変わり、
同じ東国の平将門を調伏した。

熱田湊 江戸時代七里の渡し跡の常夜灯


それから時は流れ、約六百年後の永禄3年1560年に再び尾張で大きな力が動いた。
今川義元が「織田信長への軍事対策(尾張国境一帯の制圧)」として数万の大軍で進軍してきました(近年の研究で従来の京都への上洛説は否定されています)。
この絶体絶命の危機において信長が向かったのは、熱田神宮と当時、東海道と美濃路の分岐点(追分)に移動し独立して鎮座し、織田弾正忠家がその利権を掌握していた「上知我麻社(源太夫社)」で戦勝祈願をした。当時は既に星宮社の地からは上下知我麻社は完全に離れた場所にありました。信長が訪れたかは不明ですが下知我麻社(紀太夫社)は当時は熱田神宮の境外摂社として、外周西側に鳥居があり美濃路の佐屋街道付近にありました。
この地への移転前の中世の笠山台地では、かつてはカガセオの力で将門を打つための最前線となった社殿の歴史を内包している。戦国から江戸時代は重要な東海街道と美濃路と佐屋街道と、七里の渡しへの人々の道中の安全を見守る聖地となる。
桶狭間の合戦の前に信長は、清州城で幸若舞『敦盛』を奉納します。

スーパー豊臣ブラザーズ ムーンウオーク舞ステージ
無敵星をゲットした信長 桃姫 吉井

イメージ図はフィクションです。実際の信長公の舞は誰にも分かりません。歴史考察】将門公伝説の「美しい余白」を読み解く 〜関東の聖地に息づく、もう一つの物語〜     ※フィクションです。
 はじめに:現地を包む「美しき物語」
戦国武将の織田信長は忌部氏から藤原氏から平氏に
徳川家康は松平(賀茂氏)藤原氏から源氏へと家柄の変更を繰り返していました。
私は15年以上にわたり、平将門公の面影と謎を探して、その関東一円や東海道の掛川宿十九首塚や、京都の京都神田明神などの聖地を巡ってきました。
下総国坂東市の国王神社、延命院、その他。
どこを訪れても、平将門公への深い畏敬の念が今なお息づいており、その信仰の篤さには頭が下がる思いがします。
しかし、これらの聖地が語る「由緒」を、少しだけ冷徹な「歴史のデータ」という拡大鏡で覗いてみると、教科書が語らない非常に興味深い、そして少し奇妙な時代の辻褄合わせ」が見えてくるのです。
千葉氏をはじめ、坂東平氏の系図において、将門公と並ぶ偉大な始祖として登場するのが「平良文」です。将門公と固い絆で結ばれたとされる彼ですが、同時代の超一級史料である『将門記』をいくらめくっても、その名前は驚くほど綺麗に消えています。
鎌倉時代の「源平闘諍録」では、叔父の平良文が甥の将門の養子になる謎の展開になる。
千葉氏・梶原氏・熊谷氏など、坂東平氏の関東の武士団の活躍と系図を記述したもの。
実在すら仄見えるほどに物静かなこの始祖が、なぜ後世の千葉氏の系図では、これほど都合よく「将門公の精神を受け継いだ正当な存在」として大々的にクローズアップされるようになったのでしょうか。歴史のスポットライトの当て方というのは、いつの時代も少し作為的で面白いものです。
なぜ子孫が残ったのか
もう一つ、素朴な疑問があります。
将門公が討たれた直後、朝廷が下した命令は、一族の「根切り(徹底的な粛清)」でした。本拠地であった坂東の領地は、徹底的に没収され、将門公を執念で討ち取った宿敵・平貞盛ら「朝廷側の勝者」に分配されたのが歴史の事実です。
そんな命の保証すらなかった激動の時代に、謀反人の娘たちが関東のど真ん中にひっそりと残り、ましてや秩父などの有力一族に堂々と嫁ぎ、その血筋を大繁栄させたという伝承。実に見事なドラマですが、当時の冷酷な政治情勢を考えれば、少し出来すぎたお話のようにも思えます。
もしかすると、のちに秩父の地に迎えられたのは、将門の娘ではなく、「乱の後に新しく来た別の平氏の娘」だったかもしれない。そして、のちにその土地の支配を盤石にしたいと願った人々が、少しだけ系図に「誇張という名のスパイス」を効かせたのではないか……そんな想像が膨らみます。
頼朝が使用した「将門の記号」
源頼朝が関東を支配するにあたり、関東の武士たちが信奉する「将門公」という武家には、印象が良好でした。頼朝は、千葉氏が掲げる「自称・将門の後継者」という少し危うい系図を、大人の事情で「その通りだ」と公認した形跡があります。
つまり、私たちが今目にしている将門公のビジュアルや伝承の多くは、将門公ご本人の生々しい姿というよりは、頼朝や千葉氏たちが「自分たちの権力を守るために、都合よく仕立て直した美しい記号なのかもしれません。
 おわりに:方弁と誠(まこと)の境界線
これらの神社仏閣の価値は、重要で文化と歴史を現代にまで物語ります。
始まりは、中世の過酷な時代を生き抜くための、ほんの少しの「演出」や「政治的な利用」だったのかもしれません。しかし、たとえスタートがそうであったとしても、そこから何百年、1000年に渡り人々が絶やさずに捧げ続けてきた祈りの篤さ」は、紛れもない本物だからです。
「由緒が100%正しいから尊い」のではない。「一族の生存をかけた大いなる大義名分から、1000年の継続で本物の神聖な信仰と勧請が聖地になっていた」という、人間の祈りの力。
それこそが、関東の将門公の所縁の地が持つ、真摯な祈りで勧請された奥深い「パワースポット」なのではないでしょうか。皆様は、この歴史の余白をどう読み解きますか?
                                       
京都から始まった、御霊信仰を巡る自転車の旅。
あの時、私がペダルを漕ぎ出した瞬間から、すべての運命は一つの場所へと向かっていたのかもしれません。
京都で平将門公と菅原道真公の怨霊(御霊)の歴史に触れ、尾張へと向かった道中。熱田神宮、そして上知我麻神社・下知我麻神社の付近から始まった佐屋街道の自転車旅は、名古屋への帰路、奇しくも織田信長の本拠地である「津島街道」へと重なっていきました。
国家に抗った怨霊、それを迎え撃った尾張の神々、そして天下の覇者へと駆け上がった戦国武将。
点と点だったはずの歴史のピースが、最終目的地である東国・茨城県の「常陸国 大甕(おおみか)神社」へお詣りした瞬間、凄まじい勢いで一つに繋がったのです。
大甕神社といえば、かつて朝廷(中央)にまつろわぬ最凶の星神として恐れられ、宿魂石に封じられた「天津甕星(カガセオ)」を祀る地。
そして、そのカガセオの信仰が勧請されたルートの先にあるのが、かつて将門調伏の国家祈祷が行われた尾張の「星宮社(上下知我麻社の地)」であり、将門の首が落とされた美濃の「御首神社」でした。将門の首塚の伝承は各地にある。
京都の神田明神の将門公、尾張の上下知我麻社と佐屋街道、津島街道そして
東国の天津甕星(カガセオ)。
旅の始まりから道中の景色にいたるまで、私が江戸時代の五街道などを自転車で走った全てのルートは、数百年前に繰り広げられた「中央vs東国」の呪術と信仰の戦いそのものがあったのです。
あらかじめ意図して計画したわけではない、この因果に満ちた旧道流離譚。
これほど完璧な伏線回収を見せるシンクロニシティが、果たしてただの偶然で片付けられるでしょうか。
歴史に現れる神々と、過去に時代を動かした英雄や名も無き者達の魂に励まされ、
今を生きる私は「呼ばれた」のだろうか。それを確信せずにはいられませんでした。
――私の果てしない歴史の旅は、ここで整い一つの結末を迎えた・・・はずだった。
呼ばれなければ行けない場所がある。歴史の旅を済ました事で呼ばれたようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

静神社と大甕神社を初御詣り ~東国の古の星の記憶~

 ※このブログはフィクションです。

【常陸古社巡り】東国の星の神と、織物の神「糸」の畏るべき力
 2025年 令和7年4月、今まで全然知らなかった茨城県の古社、
静(しず)神社大甕(おおみか)神社を知り探しはじめました。
初めての御詣りはサイバー大八車で、早朝の常磐道をドライブで向かいました。
織物の神が操る「遮断と封印」の糸 ―― 静神社参拝
まず初参拝したのは、茨木県那珂市に鎮座する常陸国二宮・静神社(しずじんじゃ)です。

参道石階段

やや急な石階段を上がりますが、階段の頂上から平野を見下ろすと眺めが良かった。

少し霧雨の降る曇り空の早朝の境内に一歩足を踏み入れると、厳かで清められた美しさに心が洗われます。

静神社  
 主祭神  建葉槌命(たけはずちのみこと)
 相殿神  手力雄命(てじからおのみこと) 
      高皇産霊命(たかぬすびのみこと) 
      思兼命  (おもいかねのみこと)
創祀は不明ですが大同元年(806年)とされる。
常陸国では一之宮鹿島神宮に次いで、式内社(名神大)の二之宮として尊崇を受けた。
建葉槌命(たけはづちのみこと)は織物の神様倭文神(しとりがみ)です。
神話における「出雲の国譲り」の際、天津神から派遣された経津主神(フツヌシ)と武槌神(タケミカヅチ)という二大武神によって、地上の国津神たちは次々と服従していきました。しかし、唯一最後まで激しく抵抗し続けた、荒ぶる星の神「天香背男(あまのかがせお)」だけは、この二大武神の力(武力)をもってしても屈服させられなかったといいます。
そこで最終的に遣わされ、見事に星の神を服従させたのが、この静神社の建葉槌命(たけはづちのみこと)でした。

              織姫像は東京織物商業組合の寄進
建葉槌命は、単に布を織ることだけではありません。
古代において「糸を紡ぎ、機(はた)を織る」という行為は、バラバラで混沌としたエネルギーを一本にまとめ上げ、正しい秩序の中に包み込む(封印する)という、きわめて高度な技能と精神世界を表していたのではないでしょうか。
剣の力(武力)では平定させられなかった、荒ぶる御霊(みたま)を封じ込み調伏した。

蛇の絵馬 飾り


蛇の絵馬や飾りが展示されていたがこの時は偶然、蛇年の令和7年2025年だった。

昔から帯が白蛇に似ているので、白蛇は静神社の神の使いと言われ縁起が良い。

本殿から右裏の竹林の自然豊かな、道を下ると末社がある。

 

手接足尾神社

 

手接足尾神社(てつぎあしおじんじゃ)
手と足の安全 健康の守護神の信仰が篤く、祈願の時に手足の用具を添えて願掛けをする風習があり様々な手や足の器具があった。 
みらい三度笠も肘ですがテニス肘が、早く治る様に願掛け祈願して秋の頃には治った。

静神社の静謐な神域から、次なる目的地の大甕神社へと移動しました。
 
大甕神社を参拝しました。

敷地に面した旧陸前浜街道と国道6号線の、追分付近の参道から進みます。

旧陸前浜海道は茨木県の水戸宿から、奥州の宮城県の岩沼宿まで約240kmの道中です。



神門
茨木県日立市に鎮座する大甕(おおみか)神社
大甕神社
主祭神 建葉槌命   (たけはずちのみこと)
地主神 甕星香々背男 (みかぼしかかせお)
 
創祀は不明ですが社伝によれば皇紀元年(紀元前六六〇年)とあります。
国道6号線と旧陸前浜海道の追分側の参道入り口の、大鳥居の先に木の香りのする
真新しい神門は、室町時代の神社建築様式と独自の造形で造られている。
金具も金色にピカピカです。
各地の歴史ある寺社にもこの様な感じで、昔は出来立ての頃があったと想像しました。

大甕神社社務所

社務所も見上げる大きさで迫力がある。


茨城県日立市の地主神である甕星香々背男(みかぼしかがせお)は不思議なことに『日本書紀』にのみ登場し、『古事記』にはその名がない謎多き神様です。

東天紅

灯篭に蛇の彫刻が彫られていたが、建葉槌命の布の白蛇か、甕星香々背男も蛇の案山子(かかし)とも言われるのでどちらか分からない。

東天紅は常世長鳴鶏と言われ天岩戸屋に御隠れになった天照大神を、八百万の神が鳴かせ呼び戻した縁起の良い鳥であり、この配置は意味があるのだろうか。

みらい三度笠は学生の時に「いきものがかり」の飼育委員だったので、鶏やウサギの餌の調達から小屋掃除まで世話をしていたので、この鶏舎が綺麗な事に感心した。

参拝後に鶏舎から離れた社務所まで、2匹の東天紅がご参拝「ありがとうって伝えたくて」お見送り?をしに来てくれた。

拝殿

拝殿は旧陸前浜海道に鳥居がありました。拝殿には木彫りの笑龍が祀られています。

ドラえもん石像

天香背男は巨大な岩石に化身し、日夜成長して高天原を脅かそうとしたといいます。
そこで静神社から遣わされたタケハズチは、なんと「金の靴」を履き、その圧倒的な脚力でカガセオの巨石を蹴り砕きました。

宿魂石の岩山

粉々に砕け散ったカガセオの身体(石の破片)は、常陸の国の四方へと激しく飛び散っていきました。
そして大甕神社の境内の岩山こそが甕星香々背男を封じ、今も畏怖の念を集める有名な
「宿魂石(しゅくこんせき)」
  • 笠間の地に落ちた石を封じた「石井(いしい)神社」
  • 東海村の地に落ちた石を封じた「石(いしがみ)神社」
 
構成する岩石群は約5億年前のカンブリア紀の地層(変成岩や花崗岩など)です。日本の陸地が形成される過程を知る上で、極めて重要な学術的価値を持っています。
甕星香々背男の祟りを封じ、破片が落ちたそれぞれの土地に神を祀りました。
急勾配の岩山の頂上付近には、鎖がありそれに摑まりながら登れますが掴まらず登った。

御本殿

 

山頂に御本殿があり主祭神 建葉槌命が祀られる。

岩山を下山すると、地主神の甕星香々背男を祀る甕星香々背男社があります。

写真はありません。

境界石
 御札の呪文は「物部氏」最強の蘇生術
御札に書かれた 「布留部 由良由良止布留部(ふるべ ゆらゆらとふるべ)」
これは、古代の呪術豪族・物部氏の総氏神「石上(いそのかみ)神宮」に伝わる。
本来の意味:神宝を「ゆらゆら」と振り鳴らし、魂を激しく揺さぶる(タマフリ)行為。
その効力:死者すら生き返らせるほどの「究極の鎮魂と蘇生」の呪術。
②なぜここで物部氏の呪術なのか?(星神の封印)
大甕神社は、大和朝廷に最後まで抵抗した最強の星神「天津甕星(アマツミカボシ)」を巨石(宿魂石)に封印した場所です。
参拝者が悪縁を切り、新しい自分に「生まれ変わる」ため。
本当は封印された星神の強大な怨霊を、物部氏の裏呪術で「鎮魂」し、そのエネルギーを開運のパワーへと反転させるためかもしれない。
出羽三山と繋がる「物部」の地下水脈。
前回の山形道中で体感した「出羽三山の生まれ変わり(蘇生)信仰」。実は、前回の記事の山形道中の羽黒山や湯殿山や秋田など東北の蝦夷の平定の黎明期にも、大和朝廷の先遣隊や蘇我氏との権力闘争の後の、物部氏の影が深く刻まれています。
山形(出羽)から、国道6号線(常陸)へ。
この旅のルートで直感した「再生・生まれ変わり」の共通感覚は、偶然ではありません。古代日本を裏から支えた「物部氏の鎮魂・蘇生ネットワーク」を、みらい三度笠は無意識のうちに辿っていたのか?

国道6号線

国道6号線が敷地内を通過している。

参拝後、帰路の昼食は茨木名物レンコンや野菜が、マシマシなけんちん盛りそばは旨かった。

けんちんもりそば


考察 日常の「発酵」の中に垣間見る、畏るべき糸のパワー  

キミのなっとうは 三度笠魔法少女きなぁぜ

二つの古社を巡る壮絶な歴史に深く感動して帰宅した後、ドラえもんの石像を思い出したらある事に気が付いた。

幻想のドラえもん絵描き歌
ドラえもん絵描き歌の歌詞はまるで、建葉槌命と甕星香々背男の戦い。

丸描いてちょん丸描いてちょんお豆に芽が出て、植木罰植木罰6月6日にUFOがあっち行ってこっち行って落っこちて、お池が二つ出来ました。(歌・大山のぶよ)

もう一つ気が付いた事があります。私が毎日欠かさない茨城の名産である「納豆」をいただく時間の深い意味です。

キミのなっとうは 三度笠魔法少女きなぁぜ と ポメロウ

 


実は子供の頃は、私はあの独特な納豆の薫りが臭くて苦手でした。しかし大人になったある日、その香ばしさと炊きたてご飯の相性の良さに臭さも気にならなくなり旨さに
目覚めて以来、毎日納豆は欠かさない。
私の納豆のいただき方は、究極と言うか至高のメニューだ。
  1. 3パックを一つの器に:1日分の3パックひきわり、小粒、黒大豆などブレンドをしてをまとめて大きな容器に移します。
  2. すりゴマを30回:上からゴマをすり機で擦り、丁寧に30回擦りかけます。
  3. 器の中に刻みネギの彩りを添え、塩分は納豆菌に良くないのでタレは使わない。
  4. 100回の攪拌:ここからグルグルと100回まわすと水あめの様な白さになる。
  5. 純白の糸の誕生:100回を数える頃、器の中には神々しいほどに美しい「純白の糸」が立ち上ります。
透明だったネバネバが、混ぜることで一本一本の強靭な白い糸へと変化していく様を見たとき、私は不意に静神社のタケハズチの「糸」の御神徳、そしてカガセオを蹴り壊した「金の靴」の伝承を思い出したのです。
神聖な神様のお話に納豆の薫りを重ねるなんてと、思われるかもしれません。
しかし神道において、微生物の力で物質が生まれ変わる「発酵」は、お神酒(みき)造りにも通じ「醸す」事は人の目に見えないが存在する菌の、神妙な事象そのものです。
それはまるで、荒ぶる星の神を「金の靴」で砕き、「糸」で調伏し、国の守り神へと変えていった古代の神話の縮図を、日々の食卓で追体験させていただいているような、不思議さを感じます。
宇宙・星・放射能ガンマ線を利用する「納豆樹脂」の秘密
実は現代の放射線科学において、きわめて興味深い事実が明らかになっています。
納豆のネバネバの主成分である「ポリ-γ-グルタミン酸」に、放射線である「ガンマ線」を照射すると、分子同士が強固に結びつく科学反応を起こし、自重の数千倍の水分を蓄える「高吸水性ハイドロゲル(納豆樹脂)」という一種のバイオプラスチックへと変貌するのです。現在は砂漠の緑化に利用など研究中です。
この現代科学の知見を重ね合わせたとき、私の中でカガセオとタケハズチの戦いの真実が、私の想像上でご当地展開的に氷解しました。
天香背男(カガセオ)の本質は「星の神」です。すなわち、隕石や宇宙の荒ぶる未知の恐怖のエネルギー、現代で言う「天然のガンマ線」を放つ恐るべき放射性物質のような存在だったのではないでしょうか。

武神達の剣が敵わなかったのは当然です。目に見えない星の放射線は、物理的な刃では斬ることができないからです。
そこで機織りの神であるタケハズチは、カガセオの周囲に「糸(ポリグルタミン酸)」の網を張り巡らせた。
カガセオが暴れて強力な星のエネルギー(ガンマ線)を放出すれば放出するほど、タケハズチの放った糸はガンマ線を吸収し、ガチガチに硬化して、絶対に破れない強靭な「ハイドロゲルの防壁(結界)」へと自動的に進化していく。
タケハズチは、カガセオ自身の放つ星の力(ガンマ線)を利用して、カガセオ自身を永久に身動きが取れないように封印したという、ご当地名物をアピールし現地由来の想像をしてみた。 
だからこそ、私の毎日の納豆を100回攪拌ルーティンは、この星のエネルギーすら平定する厳格な儀式を、私の驚異の小宇宙人体内で再現をしていたのかもしれない?
みらい三度笠は器の中にひきわり、小粒、黒豆など3パックの納豆をまとめて混沌を生み出し、星々を表すゴマを30回擦り機を回しゴマを擦りかけ、100回グルグルとかき回して「純白の糸」を紡ぎ出す。
御酒を醸す聖域すら侵す、混ぜるな危険の最強のまつろわぬ細菌(納豆菌)のカガセオを封じたあの「糸(ポリグルタミン酸)」「宇宙的プラスチック結界」の縮図として器の中に再現し、ありがたく体内に頂き、群雄割拠の腸内細菌の悪玉菌への防衛線を胃腸で張り巡らし平定する。

実写版 キミのなっとうは 三度笠魔法少女きなぁぜ と ポメロウ
この純白の糸が織りなす結界を大切にするため、私は卵(黄身)を絶対に混ぜません。
摺りごまだけは最良のつなぎ。
私にとって卵かけご飯(TKG)は、納豆飯を美味しくいただいた後、残った白米への「味変」として、その時が来るまで我慢するものなのです。なぜなら、ひとたび卵を入れてしまうと、糸の粘り気が断ち切られてしまうからです。それはまるで、御酒(おみき)の醸造すら破壊してしまうあの恐るべき「納豆菌」の脅威、つまり星のガンマ線にも匹敵するエネルギーの封印が外れ、暴走してしまうような気がするのです。
今回は納豆の持つ力にすべてを振ってしまい忘れていましたが、実はある奇妙な符合(シンクロニシティ)が存在します。
茨城県日立市大みか町6丁目16――この住所と国道6号線が分断する状態には、666ときてどのような意味があるのでしょうか。ここには、金星とも暁の明星(ルキフェル)とも言われる、謎めいた背景が隠されているように思えてなりません。
その近くには、世界的な重電メーカー「日立」のオリジンパークがあり、創業当時の小屋も移築・再現されています。
そもそも日立が創立へ向けて産声を上げた場所は、甲州街道の大月にある、日本三大奇橋の「猿橋」の前でした。
明治39年7月15日。猿橋の袂(たもと)にある大黒屋旅館にて、当時東京電燈(現・東京電力)の技術者であった小平浪平と、逓信省の逓信技師・渋沢元治が会談し、「我が国に電気製作事業を起こそう」と語り合いました。
「日立(日が生ずる)」という名、そして「大月」、さらにはこの地に伝わる星神「天津甕星(アマツミカボシ)」など、不思議なほどにこの歴史にはいつも「星」が付きまとっています。
星の謎を辿る旅は、ここから再び「尾張」への再考察へと戻っていきます。
ここにきて、このブログの初期の記事が、実は壮大な伏線であったことに気が付きました。
東国の星から、尾張の星宮社、熱田神宮、上下知我麻社(かみしもちかましゃ)へ。
そして、歴史を揺るがした平将門や織田信長にまで――。
謎はさらに深く続く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

新潟グルメ道中 山形道中記 番外編

  ※このブログはフィクションです 

 2025年4月の山形道中記を終え、お江戸東京への帰路は山形県鶴岡市由良から

日本海東北自動車道で向かったのは、新潟でのグルメ道中の為だ。

サイバー大八車で新潟へと駆ける

駐車場が広い

途中から国道7号を走り、道の駅の朝日みどりの里で休憩をしておやつにおはぎを食べた。

此処ではおやつのおおはぎだけで、食欲を抑えた。

そして新潟市に到着した。これから新潟のグルメ遊園地ともいえる場所で旨いもの巡りをする。

のどごしのどくろマンとキマッタリ―マンと握手! ※イメージ図はフィクションです。

万代島の鮮魚センターで春の、のどくろ祭りを自分で開催した。

浜焼き 今回はのどくろ串炭火焼きがあった。

何時来ても無い浜焼きの、のどくろ炭火串焼きが今回はあったので購入した。

色々なのどくろ調理法

大好物の、のどくろの調理法のランキングをしてみた。(個人的感想)
刺身は新潟産で他の、のどくろの産地は不明です。

1位 新潟産のどくろの刺身 新潟産が一番脂が乗っていて旨いのどくろの刺身です。

2位 のどくろ炙り寿司   炙りで皮と脂が香ばしく独特の旨味が増す。

3位 のどくろ炭火焼き串   期待より脂が乗っておらずパサつく。他の魚の方が旨い。

4位のどくろフライ    身が薄く小さいのでアジフライの方が好み。

お土産は新潟の南蛮エビせんべいが、一番旨い海老せんべいだと思う。

次は、バスセンターの万代そばの有名なご当地グルメのカレーを食べた。

何時もこのパターンのはしごで、腹が一杯になりご当地グルメのイタリアンを食べに行けない。次こそイタリアンだ。  

バスセンタービルの外の看板

数年前よりバスセンターの構内がリフォームされて、壁が白くなり構内が明るくなった。

カレー

この時はまだメンチカツは期間限定の選択肢だった。現在は正式化されたトッピングになった。

玉ねぎ豚肉の具に豚骨的なスープ的なベースに、昔ながらの立ち食いそば屋の黄色いまったりとしたカレーに仕上がり、更に新潟の米の旨さで立ち食いとは思えない充実した味わいを楽しめる。

今回の道中は山形から秋田へ新潟へそして、やっと御江戸東京に関越自動車道で帰れる。

途中の、谷川岳SAで休憩をした。

谷川岳SA上り

この谷川岳SA上りの先の6km右奥あたりが、谷川岳になる。

谷川岳と言えば以前に谷川岳への登山の玄関口である、「日本一のモグラ駅」こと土合駅を見学しに行った事がある。

廃墟の建物が残る未舗装の駐車場に無人の土合駅舎があり、長い通路の回廊を進む。

コンクリートの長い下り486段の階段の脇には、手摺りと水が流れる溝がある。無人の下り線のホームに着く。ここは新清水トンネルで、トンネルの深い暗闇から風が流れてくる。

異世界ダンジョンか、アンブレラ社の秘密の研究所の様でした。

そして谷川岳は遭難者数世界一という、魔の山として有名である。

今回の道中の目的の聖なる山の羽黒山と、道中の帰りで対照的な魔の山である谷川岳の付近で休憩をした。

関越自動車道をサイバー大八車で走り無事に帰宅した。

山形と秋田と新潟の道中記は本当に完了。

山形県鶴岡市 由良八乙女浦 白山神社  山形道中記4  完結編 

 ※このブログはフィクションです。

 2025年4月の山形道中記。

 山形道中の3日目の朝になった。昨日は生まれ変わりの羽黒山出羽三山神社の詣りと、にかほ市象潟で松尾芭蕉の最北の、奥の細道の足跡などを辿った。

今回は野ざらし紀行の車中泊ではなく、みらい三度笠が生まれ変わった初日は優雅にホテルで目覚めた。転生し目覚めた朝は奇跡が起こりなろう系作品ように、チート技を得て無双出来る人生が始まるのか?

その目覚めた場所は山形県飽海郡遊佐町吹浦で、奥崎のアマハゲ(来訪神・仮想の神々)は小正月に伝統行事が行われる。秋田県男鹿半島のなまはげ(来訪神)と似ているが違い、見た目の違いは包丁が無い。アマハゲは国の重要無形民俗文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に「来訪神・仮装の神々」として登録された。

みらい三度笠は良い子

に生まれ変わり、アマハゲに見送られ次の旅に出立した。

三度笠魔法少女がサイバー大八車に乗る

 サイバー大八車を駆り、日本海を右手に国道7号線を南下する。

道中、「セブン-イレブンいい気分」や「セブン、セブン、セブン!パオーン!ウルトラセブン」といった「7」にまつわる五七調(?)のフレーズが、口をついてしまう。
これぞ、21世紀の『奥の細道』。国道7号線から、途中で途切れ繋がらなく工事が終わらぬ日本海沿岸東北自動車道の道中で、遥か遠い日の歴史と高回転に吹け上がるサイバー大八車のエンジンのDOHCロマンなサウンドを奏で、選曲は山下達郎の風の回廊(コリドー)をカーステレオから流した。
その走りは、選曲した曲の同時代の「違いが分かる男」としてネスカフェのCMで一世を風靡したレーシングカーデザイナー・由良拓也と、かつて同CMで中島悟が見せた、粘り強く確実な「納豆走法」そのもの。安全第一で、目的地である山形県の由良港(由良海岸)を目指す。
「由良拓也は知っている」――往年のファンにはお馴染みのこのフレーズ。本来は、すべてを「悟って(中島悟を含む)」いる達人の境地を意味していたはずだが、令和の今となっては「……どちら様ですか?」と聞き返される、ジェネレーションギャップの質問系になる。「あなたの知らない世界」だ。などと、更に現代に分からん事を書いてしまう。
この由良拓也氏がかつてスーパーカー「童夢-零」のデザインに参画した、京都のレーシングカーコンストラクター「童夢」。そこには「カラス」と呼ばれる伝説的な漆黒のレーシングマシーンが存在した。
「京都」「カラス」「由良」、そして「童夢」。
このワードが揃うと、脳内は1980年代の大友克洋による伝説的漫画『童夢』へと強引に接続される。後の『AKIRA』における超能力戦争の原型と、手塚以前の漫画界の転換期となった、凄絶なサイキック(法力)バトル。
この大友克洋の『童夢』の世界観に、今回の旅の舞台である「京都」と「由良」を強引に結びつけてみる。令和のアギトのタイトルも超能力戦争だ。
京都の「烏(カラス)」の如き呪術的なパワーが、日本海を伝って山形の「由良」へと流れ込み、忘れかけていたが超能力という法力への渇望がバトルと救済のエネルギー源となっていたのではないか――。そんなサイバーでオカルトな妄想を乗せて、サイバー大八車は今日も納豆走法で、安心安全に由良の海へと向かう。
 
 
 
パオーンとセブンを歌い飽きて次は、ウルトラ警備隊のワンダバと、由良のネスカフェのcmのダバダーを歌いながらダバダーハアー!っという間に、

みらい三度笠という来訪者は知らない、初めての白山島のある由良港に到着した。

白山島

白山島は日本海の東北の江の島とも言われる。

最近多い、映える地名オブジェ

ルールを守って利用しましょう。位置が。

八乙女の像と波力発電実験の海明と人工島ネプチューンの錨

飛鳥時代の蜂子皇子(はちのこおうじ)は欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として奈良の都で誕生した。崇峻天皇5年(592年)蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺され、蘇我馬子から蜂子皇子は従兄弟聖徳太子によって脱出して丹波国由良(京都府宮津市由良)から海を船で日本海を北へと向った。

途中に福井、新潟、佐渡を経由し、出羽国の由良の八乙女浦にある舞台岩で八人の乙女達が神楽を笛の音と共に舞う姿を見た、皇子がその美しさに惹かれ海岸に上陸した。

後に、八人の乙女に由来した八乙女浦という地名が付き、出羽国の山形県の由良という地名も蜂子皇子が出発した、京都丹後の由良港からこの地も後に由良と呼ばれる。

人々を苦しみから救う為に蜂子皇子が、籠り修行した洞窟は権現穴と呼ばれ、羽黒山頂の鏡池に繫がると言われる。

蜂子皇子は新倉山を越えて、東に向かい聖なる山の羽黒山を目指したが、迷った所で現れた三本足の烏(八咫烏やたがらす)に導かれて、聖徳太子に知らされた聖なる羽黒山に辿り着き羽黒権現を感得し、出羽三山を開かれた。

左が恵姫(えひめ)右が美鳳(みおう)

白山島

この日は強風でこの橋は欄干が低く、潮の飛沫が少しかかる。透明度は高く綺麗な海だった。

一の鳥居

白山神社は白山橋を渡ると一の鳥居があり、左に海洋釣り堀がある。

白山島全体図

遠くから眺めた感じより、かなり広い面積がある。

二の鳥居

二の鳥居の先の三の鳥居の先に白山神社拝殿がある。さらにその先に四の鳥居があり白山神社本宮がある。

急勾配の参道の階段の登は263段なので、結構な運動になる。

みらい三度が一人で参道の急階段を登っていて、階段を見下ろしても誰も居ないのだが、その間はずっと強風に木々が靡き擦れ合い、キシギシと鳴り続けた。

白山神社本宮

白山神社本宮 観音堂(高石寺跡)

主祭神 菊理媛命

側神  伊邪那岐

    伊邪那美

御神徳 海上安全 大漁満足 縁結び 商売繁盛 交通安全 五穀豊穣 身体堅固 心願成就

本宮に着いて参拝しても、参道の木々が強風で擦れ会話をしているような状態は、

今までの神社詣りでは、経験したことも無い不思議な神社詣りだった。

よくぞこの場所に、社殿を立てたと感心する。

狛犬は4体あり新しい白い狛犬と、長年の海風と雪に耐え溶けた狛犬が鎮座している。

参道を降り白山島の周遊道路に出る。

由良海岸の碑

白山島からの日本海の由良海岸の眺め。海水が透明度が高く綺麗だった。

通行止め

白山島は現在がけ崩れで通行止めになっていたので、一周する事が出来ず残念だ。

 

今回初めて八乙女浦の由良に来て、何となく妄想が閃めいた。

巡礼の始まりの京都の丹後由良港から、後に由良と呼ばれるようになった八乙女浦。

そこからの出羽三山。その出羽三山を巡礼する事は、死と再生を巡る生まれ変わりの旅とされ信仰される。

丹後由良から出羽由良へ次は、出羽三山で死から再生への生まれ変わりの信仰の旅。

その航路は、まるで石上神宮の物部氏や、白川神道の鎮魂法(御霊振りの神事)で用いられる呪文の、布瑠部由良由良止布留部(ふるべゆらゆらとふるべ)のようだと思う。

丹後の由良港と出羽の由良港。

『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の神話では、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が天孫降臨の際に天神から授かった、10種類の宝物(沖津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死返玉・足玉・道返玉・蛇比礼・蜂比礼・品物之比礼)を使用します。

死者すら生き返らせる神業。

「布瑠部」は魂を振るい起こし(フルヘ)を意味し、「由良由良」は身体を揺り動かし霊的なエネルギーを活性化させる動作を表します。

蘇我氏との権力闘争に敗れ逃れた物部氏の末裔が、東北方面には多い。

故に出羽三山の「生まれ変わり」の信仰へと昇華したのではないか。

八乙女浦の由良に実際に来て、浮かんだ思いだった。

 

みらい三度笠の死と再生の生まれ変わりの旅の、山形道中記はこれにてお終い。

 

 

山形県酒田市の歴史と、奥の細道の最北の地の秋田県にかほ市象潟(さきかた)の九十九島 鳥海山  山形道中記3  

            ※このブログはフィクションです。

令和8年2025年4月の道中

早朝の羽黒山出羽三山神社へ初詣りを終えたみらい三度笠は、羽黒山の石階段の参道を下ると、登りの参拝客が多くなっていた。

開店していた二の坂茶屋で力持ちを食べて下山した、生まれ変わったみらい三度笠のお食い初めは、酒田市にサイバー大八車を走らせラーメンを食べに行った。

山形は月の付くラーメン店の店名が多い

煮干し鳥系スープで中細ストレート気味の麺のワンタン麺 個人的な評価は食べ〇グの評価が妥当。

酒田のまちづくり三十六人衆

出羽国は江戸時代の初期は最上氏が支配していた出羽山形藩だが、お家騒動で幕府により改易となり松平家時代からの徳川家の家臣の譜代大名の庄内藩の酒井家に変わったが、後に幕府による三方領地替えの危機もあったが、領民と藩主の結束で回避して幕末まで出羽国を統治した。

北前船の港で栄えた、山形県酒田市の街を観光した。

酒田市の大獅子

 

巨大な獅子が設置されていた。1976年昭和51年に酒田で大火事が発生した。復興のシンボルとして大獅子が誕生し、後に赤ちゃん獅子も含め16体誕生した。

奥の細道所縁の地

江戸時代の庄内藩は譜代大名である為、幕府の工事負担や藩主の贅沢で財政難になったが、北前船の豪商である本間家のお陰で財政を立て直した。そこで「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」と言われた。

その本間家旧本邸と酒田市道路元標の、石碑の並びにある奥の細道の木標に近江三郎兵衛宅跡と記載される。どんな人物の事だろうか。

出羽三山神社でも奥の細道松尾芭蕉像とその足跡があり、酒田市にも松尾芭蕉像がある。

山居倉庫と新井田川

酒田港から南側の山居倉庫にコロナ禍以来の再訪をした。

山居倉庫は明治26年1893年に旧庄内藩主酒井家により、酒田米穀取引所の付属倉庫として建設され流通と品質を確保した。2021年に国の史跡に指定された。

静まり返った山居倉庫

コロナ禍の頃の時は倉庫として、稼働していたような気がする。

倉庫裏のケヤキ並木

ケヤキは手の指のようで見ごたえがある。雪や日差しから米を守る為の植樹で枝が守りの手のようだった。

 酒田は米所でおにぎりが美味かった。

昔の国営放送の人気連続ドラマのおしんのロケ地の舞台だったが、オラは大根飯のレシピを知りたい。

いろは蔵パーク

前回は無かったいろは蔵パークという、複合商業施設が出来ていた。山居倉庫の土産店も此処に移転している。

3種類のバニラアイスクリーム

全て美味だが、真中のつや姫の優しい甘さが好みだ。

かつて北前船で栄えた酒田の街のこのような、イメージの料亭に行ってみた。

山王くらぶ

酒田市の料亭の山王クラブを見学した。受付で普通の説明を受けて館内を巡る。明治28年1895年という130年前の木造建築の内観すると綺麗に飾られ傘福が華やかさを増していた。舞子さんは居ないが福傘が室内に飾られていた。

その次は江戸時代から続く、茶屋の歴史を持つ舞子茶屋相馬楼を訪れた。

※イメージ図はフィクションです。実際と異なります。

相馬楼には九曜紋の意匠が施されており、今朝の羽黒山の五重塔の平将門伝承を思い出した。羽黒修験の妙見信仰との関係だろうか。

閉店間際に入店すると受付は、白粉で紅を差した化粧の着物姿の若い舞子さんだった。

京都ではなく山形の酒田の街で、江戸時代に戻ったかと思った。

閉館時間が近く見学しか出来ないのだが、外人観光客向けでもあろう舞子さんについてのビデオ説明を見た。舞子さんに此処の振付は日本舞踊の何処の流派かを訊ねたりして、舞子さんに御稽古やなとり資格の有無や、三味線についてお話出来た。

演舞に九州や京都の影響ががあるのは、北前船で栄えた酒田港ならではと言われる。

竹岡夢二の美術館も併設されて、美人画の見学が出来た。

このような繊細な日本的な芸能や美術的センスを、メディアは無視を続けて日本人は良さを忘れてしまい、外国人観光客の方が良さを理解するとはおいたわしや~。

鬼滅の刃好きならば、行くべき世界観だった。

 

出羽国の歴史考察をしてみた。

山形県には九州以外で唯一の南州神社(なんしゅうじんじゃ)がある。

北前船は江戸時代の昔から酒田港から九州にも回船していた。薩摩藩の西郷隆盛を祀る南州神社。

幕末の頃に大政奉還後にも、江戸市中取締まりを担う譜代大名庄内藩が預かる新徴組への江戸市中で薩摩藩が預かる者の挑発の攻撃が続き、庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き打ちを決行した。

薩長の討幕の仕上げの挑発に乗り、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争の切っ掛けを作った。

奥羽越列藩同盟は旧式装備で、アメリカ・イギリスの最新銃を装備した新政府軍に敗北をしたが唯一、豊富な資金でフランスの最新式の銃を装備した、精鋭揃いの庄内藩の破軍星(逆北斗七星)を背負う酒井玄蕃の二番大隊は強かった。その後、奥羽越列藩同盟の秋田藩と新庄藩の同盟軍の寝返り、会津藩の敗北で庄内藩は降伏した。

賊軍の処遇を甘んじると思いきや、新政府軍の西郷隆盛の寛大な処遇により甘い処罰に感銘を受けた。

そして、その温情裁定から西郷隆盛を祀る南州神社を建立した。

歴史的には実はその更に前の江戸時代から、薩摩藩と庄内藩は関係があった。

江戸時代中期に薩摩藩は商人候補者を全国から募集をして、山形の庄内藩の商人が選ばれ薩摩藩で密貿易などで、財を成した長い歴史がある。既に両藩にネットワークが出来ていた。薩摩藩島津家から新庄藩へ御輿入れをした姫様がいる。

※このオカルトはフィクションです。

「東国の古の星の記憶――譜代名門・酒井家の歴史に潜む平将門の因果」

これは酒井家がそれだけ徳川家に信頼され、東国の霊的守護を任されるほど尊い家柄だったという証拠かもしれない。

徳川幕府を支えた最強の譜代大名・酒井家。実はこの一族の歴史をオカルト的な視点で紐解くと、日本三大怨霊とされる平将門との奇妙な因果が浮かび上がってきます。
前橋:平将門が上野国府で「新皇」を宣言した地を、徳川家康は汝に、関東の華をとらすと、酒井雅楽頭家(さかいうたのかみけ)に(前橋)厩橋城を任せた。
江戸上屋敷:前橋から姫路に転封となった雅楽頭家の江戸城大手門前の下馬札前の上屋敷内には、古より柴崎古墳があり将門の首塚があった。
庄内:酒井左衛門尉家(さかいさえもんのじょうけ)の庄内藩の領内には平将門の創建の伝承が古くからある五重塔があり、幕末には将門と同じ「妙見信仰の逆北斗七星(破軍星)」を掲げて無敗を誇った。
徳川の終わりを見届けた酒井家が、その最後の戦いで将門と同じ妙見信仰である旗を翻していたというのは、単なる偶然でしょうか。それとも、東国の巨大なエネルギー(将門)をコントロールするために配置された酒井家が、最後にその霊力を解放したのでしょうか。歴史の裏側に潜む、シンクロニシティです。

平将門は父親の遺産の奪う、叔父らの横領から平将門は争った。

同族で争いした暴れ者ではなく、将門の叔父から領地を取り戻す将門は被害者側だった。

それが拡大し、破竹の勢いで関八州を制覇し新皇を名乗り賊軍となった平将門は妙見信仰していたが敗北した。これが初の武家政権の起こりとも言えた。

北極星という星の仏様の妙見菩薩について、興味が沸き星座の神々に想いを馳せた。

 

北斗七星と言えば近年の俗説の一つに過ぎない、「平将門の江戸の北斗七星の結界」が大昔からの既成事実のように語られているが、そのスポットの創建年代を調べればこじつけが過ぎる上、そもそも平将門を正確に把握する気も無いのか、平将門と相反するその北斗七星上の敵側スポットなどは、迂闊に平将門を推しで北斗七星巡りをして

間違って訪れてしまうと、碌な事が無いであろう。

 

次は、山形県と秋田県を跨がる鳥海山がある秋田県にかほ市象潟(さきかた)に向かった。

鳥海山は活火山で山形県と秋田県の県境を、跨がる標高2236mの新山です。

出羽富士とも呼ばれ山頂は山形県飽海郡游佐町に、出羽国一之宮である大物忌神社の本社が鎮座する。

その麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が二ヶ所鎮座しており、その一つの大物忌神社蕨岡口ノ宮は例大祭が、5月3日い大御幣祭が行われ、もう一つの大物忌神社吹浦口ノ宮は5月4日、5日に吹浦まつりが行われる。

御祭神は大物忌大神(オオモノイミノカミ) 月読命(ツクヨミノミコト)は月山神。

創祀は欽明天皇二十五年 西暦564年頃の歴史がある。

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が鳥海山に天の鳥船で降臨し天から授かった、十種の神宝が

物部氏に伝えられたと『物部文書』などに記されている。

古事記や日本書紀では、大阪の河内に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は降臨したはずなのだが秋田にも降臨の伝承が有る。

物部氏は蘇我氏との闘争(587年の丁未の乱)に敗れ物部氏の発祥の東北の秋田・鳥海山に逃げ延びたという説がある。

鹿象横秋(ろくぞうおうしゅう)イメージ図はフィクションです。

 

その鳥海山の歴史は約2500年前の、紀元前466年の冬に山体崩壊を起こし象潟岩屑を起こしに象潟平野(にかほ市)方向に25kmの長さで流れ込んだ。

土砂は5分で到達し、これにより宮城県の松島の様な湖である八十八潟に浮かぶ数多くの小島の九十九島が発生した。

三度笠魔法少女いなよ 芭蕉の訪れた頃の象潟のイメージ図

現在は宮城県松島市日本三景松島と秋田県にかほ市九十九島(旧・象潟さきかた)は全国初の夫婦町です。

なんとか、日没前に秋田県にかほ市象潟(さきかた)の道中が、出来そうだが曇り始めた。

道の駅 象潟

早朝の山形県の出羽三山神社詣りから酒田市を巡り、秋田県にかほ市象潟に夕暮れ前に高速道路移動して到着した。

サイバー大八車は伊達じゃない!昨日訪れた館山城・米沢城も伊達じゃない?

じゃないの意味が、肯定なのか否定なのか理解が難しい。

道の駅象潟で鳥海山の歴史を見学した。

現在は景勝地で、国指定天然記念物の九十九島は道の駅「ねむの丘」の展望室から一望することが出来る。

2014年の象潟IC工事で出土した山体崩壊で発生した地層

クッククック青い鳥♪ではない。九十九島の青い看板

面白い道路標示

松尾芭蕉専用道路ではなく、順路案内のナビライン。

松尾芭蕉がにかほに訪れた 元禄2年(1689年)6月時から、江戸時代後期に文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時ごろ)出羽国を中心とした津波を伴い発生した大地震でにかほの海に浮かぶ九十九島は、水面の潟から地表に隆起した。

三度笠魔法少女いなよ 現在の象潟のイメージ図

九十九島への④さんぽみち共通コースの踏切

 

異世界の様に生まれ変わった現在の九十九島への、羽越本線の踏切は遮断バーの黄色と黒色の模様が、先程の道中の山形ァの後だと漫画アキラの天変地異のクラスの力を、

封印した場所への、エレベーターの黄黒の模様じみている。

自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いたのだ?

④さんぽみち共通コースから見学した。

 

蚶満寺山門

松尾芭蕉の一行は、奥の細道の道中で1689年(元禄2年)6月に蚶満寺(かんまんじ)に滞在した。

玄海島

 

芭蕉に象潟は「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と評される。

西施像

「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠まれている。

雨に濡れる合歓(ねぶ)の花の美しさを、中国の薄幸の美女・西施(せいし)が憂いに沈んで眠っている様子に重ね、象潟の哀愁漂う絶景を称えた。

松尾芭蕉は将来に象潟で起きる不穏な空気を詠み、将来の災害を予言していたのか?

奥の細道最北の地の松尾芭蕉像

お前は今まで見た芭蕉像の数を覚えているのか?無理ィィィィ!と言う位に、全国に無数に有りヒンメルならそうした像よりも多い、松尾芭蕉像の数は日本一ィィィ!約2000体位あると言われる。

 

追記 この記事の作成後日に奥の細道最北の地のにかほの、三度笠魔法少女に稲庭や稲にちなむ「いなよ」と、命名した日の夜に千住の芭蕉像がある場所に行った。元禄2年(1689年)奥の細道の起点で、松尾芭蕉が深川から隅田川を舟で上り、千住大橋の近くで陸に上がって長い旅へ歩み出した、矢立初めの地(やだてはじめのち)その千住のやっちゃば(青物市場)で使われていた本物の石畳が今場所に移設されて像の周りに敷き詰められている。

松尾芭蕉像を日光街道自転車旅の時は写真を撮らなかったのだが、今回やっと撮れました。

奥の細道の起点の千住の矢立初めの地の松尾芭蕉像

おわかりいただけただろうか。

スマホカメラの撮影時の乱反射によるゴースト・フレアを。

奥の細道で一緒に出発した門人の河合曽良(かわいそら)は此処にかほの蚶満寺に滞在後に酒田に向かい、大垣を目指す芭蕉と別れ芭蕉は奥の細道の一人旅をした。  この日はこれで道中は終了して、珍しくホテルに泊まりポテチを食べた。

いぶり学校というポテトチップス

もう一つの旧ブログの、「みらい三度笠の道中ブログ」の美濃路自転車旅で、松尾芭蕉の奥の細道の終着地の美濃路の、大垣宿について書いてあります。 

続く。

出羽三山神社 山形道中記 2

           ※このブログはフィクションです。 

  2025年4月の山形道中2日目で、初めて出羽三山神社をお詣りした。

出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山の三山を全て詣でる事で生まれ変わりの修行を

するとされる。

生きながら生まれ変わりの旅として江戸時代には、西の伊勢参り東の奥詣りと呼ばれ

庶民の間で広まった。

米沢市から車中泊後に、鶴岡市まで山形自動車道を走り鶴岡市羽黒町手向に、早朝に

出羽三山神社に到着した。

入り口に真新しく巨大な灯篭が聳え立っていた。絵が描いてあり、正面に八咫烏

羽黒山御縁年)の右は牛、(月山御縁年)の左は兎、(羽黒山御縁年)の後ろは午(午歳御縁年)が描かれている。

今年の令和8年2026年は丙午午歳御縁年)で現世を表す羽黒山では、午歳御縁年となり大変おめでたい年で、御縁年に参拝すると12年分の福があると言われる。

真新しい巨大な灯篭

山形ドライブ道中2日目の、誰も居ない早朝の駐車場にサイバー大八車を停めた。

出羽三山神社 随神門前鳥居

出羽三山は3つの山総称で、これから登る羽黒山は(現在)現世を表し山頂の三神合祭殿への深山の五重塔を経由し石階段を2,446段を登る、五重塔を経由する参道。

月山は(過去)来世で死後の安楽を表し往生を祈る山は標高1984M7月下旬まで雪が残る修験者や参拝者が多く訪れる。 

湯殿山は(未来)・来世の生まれ変わりを表し、 「語るなかれ、聞くなかれ」の神秘的な場所が湯殿山神社。月山から縦走が可能。江戸時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山だった。明治以降は羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命、大国主命、少名彦命を祀る。開山以来の羽黒派修験道は継承されている。

案内図

出羽三山神社三神合祭殿でお詣りをすると、羽黒山と月山と湯殿山の三社の御利益が得られるという。

羽黒山随進門

羽黒山随神門には邪気を払う為に、左右に矢と剣を持ち豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)鎮座している。明治時代の神仏分離以前は仁王門として元禄元年1688年に秋田矢島藩主に初めに寄進された仁王門で、仁王尊像と左大臣と右大臣が鎮座していた。

随神門から下り参道の石階段

前日の雨が私の訪れた朝に丁度止んで、潤った新緑が美しく縁起は良いが濡れた継子坂(ままこざか)の石畳を下るが滑らないように気を付けた。この坂は現世から来世への生まれ変わりを意味していると言われる。

末社

階段を降りきると右への曲がり角に末社が多く祀られていた。

羽黒山神橋

羽黒山神橋は雅な朱色で京田川・祓川を渡る。渡った右に須賀の滝がある。

古来修験者が身を清める禊をした。

真ん中が爺杉

樹齢推定1000年を生きる国指定の天然記念物の爺杉。明治35年まで隣に婆杉があったが台風で倒れてしまった。松尾芭蕉を見下ろし風雪に耐えた。

その間に訪れる人々の葬送と、その子孫の誕生という生まれ変わりの様な命の継続を見続けていたのだろう。

その隣の一の坂の前に、高さ29m三間五層杮葺素木造の五重塔がある。

羽黒山五重塔

国宝羽黒山五重塔は1372年に再建された。本尊は正観世音菩薩、軍荼利明王と妙見菩薩の三尊を祀っていた。神仏分離の後昭和21年より大国主命が御祭神となる。

この素木造建築が積雪にも耐えるような、維持管理が出来ていて凄い。

杉林の中で五重塔は、迫るような迫力がある。

羽黒山五重塔

史実とはされないが930年頃に、平将門が建立したとの伝承が古くからある。

平将門は妙見菩薩を信仰していた。

その頃は平将門の父の遺産の領地を横領した、平国香と平良兼の叔父たちと源衛との

紛争が始まり多忙では?とも思う。

八咫烏と不動明王と平将門との関係性を考慮すると相反すると思うが、歴史的に京から追われ流れて来た者達が辿り着く(物部氏の伝承)東北の地では、まつろわぬ者たちの神仏習合や修験道が強く残り、平将門の伝承も有るのだろうか。

一の坂

急勾配な石階段で一の坂が始まる。結構きついので息が上がる。

夫婦杉

別々の2本の杉が根元で絡み合い、一本の杉の様に見える杉を夫婦杉と言う。

二の坂

二の坂から石畳の急勾配を登る。汗をかき足元に注意をしながら登るが、参拝の直前に止んだ雨が気化して、清涼な新緑の空気に心が洗われ心地良い。

マイナスイオンが出ているが、石畳の何段目か分か分からない。

二の坂茶屋

玄関飾りは羽黒山魔除けの引綱という。

名物力餅がある二の坂茶屋は、早朝なのでまだ開いていない。

帰りに力餅を食べに寄ると決めた。

芭蕉翁三日月塚

松尾芭蕉は「奥の細道」でこの出羽三山に立ち寄り此処で

涼しさや ほの三か月の 羽黒山 と句を詠んだと言われる。

御本坊跡

別当寺宝院の跡で明治時代まで御本坊と呼ばれた。

南谷への分岐点
南谷への分岐があり芭蕉の史跡があるが現在は歩道の決壊の為に通行止めだった。
ここまで来るとけっこう疲れたがもう一息だと、頑張って一人で登り続ける。

三の坂

深山の緑の生い茂る石階段は極楽浄土、天国への階段のようだった。

三の坂に至るまでにすれ違う人は、1名が下ってきただけで参道は私だけだった。

すると神秘的な深山の朝の石畳を、異国の天使達が突然舞い降りて来た?!

みらい三度笠は登り疲れてパトラッシュもう疲れたよ、とまでは言っていないが。

女性が多いその外国人のグループは軽装であり、この早朝に三の坂を下りるとは一体何時に登ったのだろうか?

今日の日の出の前に登らなければこの時点では、下山は出来ないはずだが。

みらい三度笠はハローとしか挨拶が出来ないが、最近は海外の旅行者にコンニチワと

日本語で返される事が多くなった。

朝イチに降りて来た謎は後で羽黒山で聞いたが、山頂の宿坊で宿泊した海外の観光客だった。山頂までは有料道路で車でも登れると分かった。

ビバンダム君のガイドブックのミシュラン・グリーンガイド・ジャポンでの評価は三ツ星で、海外でも高評価だったのだ。

そんな驚きの遭遇があった場所は此処だった。

埴山姫神社

埴山姫神社 祭神 埴山姫命(はにやまひめのみこと)

神格は土の神、田畑の土壌の神、陶器の神 神

徳は田畑開墾の守護、陶磁器業の守護、子宝・安産守護

縁結びの神で赤い紐を、社殿の格子に結び良縁を祈ると結ばれると言われる。

榛名神社にも埴山姫は祀られている。

この場所は袖すりあうも他生の縁が発生した理由を、納得する場所なのは偶然だろう。

ひょうたんの石段の彫り物

謎の様々な形の石段の彫り物の絵が33個あり、全て見つけると願いが叶うとか。

十五童坂と鳥居

十五童坂の先に山頂鳥居が見えて、頂上の出羽三山神社に着いた。

創建は、崇峻天皇の皇子である蜂子皇子(はちこのおうじ)

欽明天皇二十三年に崇峻天皇の第三王子として誕生したとされる。562年~641年。

蘇我氏の迫害から逃れる為に、従弟の聖徳太子の勧めで仏門に入り(京都府宮津市由良)丹後の由良港から日本海を北上して能登半島や佐渡などを海を渡り出羽の由良の海から陸を見ると、現在の山形県鶴岡市由良で八乙女浦の舞台岩の上で、八人の乙女が笛の音と神楽を舞ており、その姿美しさに惹かれて上陸をした。

その地で修業を重ね、夢の中で月の山の霊地を開山して民人を救うべしと、お告げを受けた。そして出発すると途中で三本足の烏(ヤタガラス?)に導かれ出羽三山に辿り着き羽黒三山を登り羽黒大権現を感得し、山頂に寂光寺を創建した事が出羽三山開山の始まりとなる。

月山と湯殿山にも登り、月山大権現と湯殿山大権現を感得し勧請した羽黒三所大権現として奉仕し開祖となる。神仏分離の明治以降は大権現号は廃し、出羽神社と称し三神を合祀している建物を三神合祭殿と称している。

蜂子王子の容姿は怪異な姿の肖像画が伝わるが、多くの人々の面倒や悩みを見て取り除いた事が原因とも言われる。悩徐仙、悩徐大使、悩除太子とも呼ばれる。

出羽三山神社には東北で唯一の皇室の墓の、蜂子王子の墓がある。

出羽三山神社 羽黒山三神合祭殿

出羽三山神社 羽黒山三神合祭殿の前に龍の柱と社殿の前に鏡池がある。

この池は年間水位が変わらず、神聖視され古より銅鏡を奉納する。羽黒神社とかいて「いけのみたま」と読み龍神として信仰された。

蜂子王子が上陸した、山形県鶴岡市の由良の海の八女浦の洞窟が、この鏡池と繫がっているとの言い伝えがある。

東照社

正保2年(1645)創建の東照宮で日光東照宮(栃木県日光市)の分霊を勧請した。

明治時代から、東照宮から東照社と改められた。

鐘桜と大鐘

1618年に再建された最上家信の寄進による萱葺きの鐘桜と大鐘。

松尾芭蕉像

奥の細道で松尾芭蕉は7日滞在し、羽黒山、月山、湯殿山を詣で俳句を句作した。

実は松尾芭蕉は日本全国各地に、最大数に人物像が多いのでは?

奥の細道で最北の目的地、秋田県の象潟を目指し庄内地方へ野ざらし的な紀行を続けた。

みらい三度笠は初めての出羽三山神社への参拝で、三山を巡った事になり、

生まれ変わり次の目的地へ向かった。