みらい三度笠の旅道楽ブログ 

みらい三度笠の道中記

出羽三山神社 山形道中記シリーズ その2

           ※この内容は個人的な感想でフィクションです。 

  2025年4月の山形道中2日目で、初めて出羽三山神社をお詣りした。

出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山の三山を全て詣でる事で生まれ変わりの修行を

するとされる。

生きながら生まれ変わりの旅として江戸時代には、西の伊勢参り東の奥詣りと呼ばれ

庶民の間で広まった。

米沢市から車中泊後に、鶴岡市まで山形自動車道を走り鶴岡市羽黒町手向に、早朝に

出羽三山神社に到着した。

入り口に真新しく巨大な灯篭が聳え立っていた。絵が描いてあり、正面に八咫烏

羽黒山御縁年)の右は牛、(月山御縁年)の左は兎、(羽黒山御縁年)の後ろは午(午歳御縁年)が描かれている。

今年の令和8年2026年は丙午午歳御縁年)で現世を表す羽黒山では、午歳御縁年となり大変おめでたい年で、御縁年に参拝すると12年分の福があると言われる。

真新しい巨大な灯篭

山形ドライブ道中2日目の、誰も居ない早朝の駐車場にサイバー大八車を停めた。

出羽三山神社 随神門前鳥居

出羽三山は3つの山総称で、これから登る羽黒山は(現在)現世を表し山頂の三神合祭殿への深山の五重塔を経由し石階段を2,446段を登る、五重塔を経由する参道。

月山は(過去)来世で死後の安楽を表し往生を祈る山は標高1984M7月下旬まで雪が残る修験者や参拝者が多く訪れる。 

湯殿山は(未来)・来世の生まれ変わりを表し、 「語るなかれ、聞くなかれ」の神秘的な場所が湯殿山神社。月山から縦走が可能。江戸時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山だった。明治以降は羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命、大国主命、少名彦命を祀る。開山以来の羽黒派修験道は継承されている。

案内図

出羽三山神社三神合祭殿でお詣りをすると、羽黒山と月山と湯殿山の三社の御利益が得られるという。

羽黒山随進門

羽黒山随神門には邪気を払う為に、左右に矢と剣を持ち豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)鎮座している。明治時代の神仏分離以前は仁王門として元禄元年1688年に秋田矢島藩主に初めに寄進された仁王門で、仁王尊像と左大臣と右大臣が鎮座していた。

随神門から下り参道の石階段

前日の雨が私の訪れた朝に丁度止んで、潤った新緑が美しく縁起は良いが濡れた継子坂(ままこざか)の石畳を下るが滑らないように気を付けた。この坂は現世から来世への生まれ変わりを意味していると言われる。

末社

階段を降りきると右への曲がり角に末社が多く祀られていた。

羽黒山神橋

羽黒山神橋は雅な朱色で京田川・祓川を渡る。渡った右に須賀の滝がある。

古来修験者が身を清める禊をした。

真ん中が爺杉

樹齢推定1000年を生きる国指定の天然記念物の爺杉。明治35年まで隣に婆杉があったが台風で倒れてしまった。松尾芭蕉を見下ろし風雪に耐えた。

その間に訪れる人々の葬送と、その子孫の誕生という生まれ変わりの様な命の継続を見続けていたのだろう。

その隣の一の坂の前に、高さ29M三間五層杮葺素木造の五重塔がある。

羽黒山五重塔

国宝羽黒山五重塔は1372年に再建された。本尊は正観世音菩薩、軍荼利明王と妙見菩薩の三尊を祀っていた。神仏分離の後昭和21年より大国主命が御祭神となる。

この素木造建築が積雪にも耐えるような、維持管理が出来ていて凄い。

杉林の中で五重塔は、迫るような迫力がある。

羽黒山五重塔

史実とはされないが930年頃に、平将門が建立したとの伝承が古くからある。

平将門は妙見菩薩を信仰していた。

その頃は平将門の父の遺産の領地を横領した、平国香と平良兼の叔父たちと源衛との

紛争が始まり多忙では?とも思う。

八咫烏と不動明王と平将門との関係性を考慮すると相反すると思うが、歴史的に京から追われ流れて来た者達が辿り着く(物部氏の伝承)東北の地では、まつろわぬ者たちの神仏習合や修験道が強く残り、平将門の伝承も有るのだろうか。

一の坂

急勾配な石階段で一の坂が始まる。結構きついので息が上がる。

夫婦杉

別々の2本の杉が根元で絡み合い、一本の杉の様に見える杉を夫婦杉と言う。

二の坂

二の坂から石畳の急勾配を登る。汗をかき足元に注意をしながら登るが、参拝の直前に止んだ雨が気化して、清涼な新緑の空気に心が洗われ心地良い。

マイナスイオンが出ているが、石畳の何段目か分か分からない。

二の坂茶屋

玄関飾りは羽黒山魔除けの引綱という。

名物力餅がある二の坂茶屋は、早朝なのでまだ開いていない。

帰りに力餅を食べに寄ると決めた。

芭蕉翁三日月塚

松尾芭蕉は「奥の細道」でこの出羽三山に立ち寄り此処で

涼しさや ほの三か月の 羽黒山 と句を詠んだと言われる。

御本坊跡

別当寺宝院の跡で明治時代まで御本坊と呼ばれた。

南谷への分岐点
南谷への分岐があり芭蕉の史跡があるが現在は歩道の決壊の為に通行止めだった。
ここまで来るとけっこう疲れたがもう一息だと、頑張って一人で登り続ける。

三の坂

深山の緑の生い茂る石階段は極楽浄土、天国への階段のようだった。

三の坂に至るまでにすれ違う人は、1名が下ってきただけで参道は私だけだった。

すると神秘的な深山の朝の石畳を、異国の天使達が突然舞い降りて来た?!

みらい三度笠は登り疲れてパトラッシュもう疲れたよ、とまでは言っていないが。

女性が多いその外国人のグループは軽装であり、この早朝に三の坂を下りるとは一体何時に登ったのだろうか?

今日の日の出の前に登らなければこの時点では、下山は出来ないはずだが。

みらい三度笠はハローとしか挨拶が出来ないが、最近は海外の旅行者にコンニチワと

日本語で返される事が多くなった。

朝イチに降りて来た謎は後で羽黒山で聞いたが、山頂の宿坊で宿泊した海外の観光客だった。山頂までは有料道路で車でも登れると分かった。

ビバンダム君のガイドブックのミシュラン・グリーンガイド・ジャポンでの評価は三ツ星で、海外でも高評価だったのだ。

そんな驚きの遭遇があった場所は此処だった。

埴山姫神社

埴山姫神社 祭神 埴山姫命(はにやまひめのみこと)

神格は土の神、田畑の土壌の神、陶器の神 神

徳は田畑開墾の守護、陶磁器業の守護、子宝・安産守護

縁結びの神で赤い紐を、社殿の格子に結び良縁を祈ると結ばれると言われる。

榛名神社にも埴山姫は祀られている。

この場所は袖すりあうも他生の縁が発生した理由を、納得する場所なのは偶然だろう。

ひょうたんの石段の彫り物

謎の様々な形の石段の彫り物の絵が33個あり、全て見つけると願いが叶うとか。

十五童坂と鳥居

十五童坂の先に山頂鳥居が見えて、頂上の出羽三山神社に着いた。

創建は、崇峻天皇の皇子である蜂子皇子(はちこのおうじ)

欽明天皇二十三年に崇峻天皇の第三王子として誕生したとされる。562年~641年。

蘇我氏の迫害から逃れる為に、従弟の聖徳太子の勧めで仏門に入り(京都府宮津市由良)丹後の由良港から日本海を北上して能登半島や佐渡などを海を渡り出羽の由良の海から陸を見ると、現在の山形県鶴岡市由良で八乙女浦の舞台岩の上で、八人の乙女が笛の音と神楽を舞ており、その姿美しさに惹かれて上陸をした。

その地で修業を重ね、夢の中で月の山の霊地を開山して民人を救うべしと、お告げを受けた。そして出発すると途中で三本足の烏(ヤタガラス?)に導かれ出羽三山に辿り着き羽黒三山を登り羽黒大権現を感得し、山頂に寂光寺を創建した事が出羽三山開山の始まりとなる。

月山と湯殿山にも登り、月山大権現と湯殿山大権現を感得し勧請した羽黒三所大権現として奉仕し開祖となる。神仏分離の明治以降は大権現号は廃し、出羽神社と称し三神を合祀している建物を三神合祭殿と称している。

蜂子王子の容姿は怪異な姿の肖像画が伝わるが、多くの人々の面倒や悩みを見て取り除いた事が原因とも言われる。悩徐仙、悩徐大使、悩除太子とも呼ばれる。

出羽三山神社には東北で唯一の皇室の墓の、蜂子王子の墓がある。

出羽三山神社 羽黒山三神合祭殿

出羽三山神社 羽黒山三神合祭殿の前に龍の柱と社殿の前に鏡池がある。

この池は年間水位が変わらず、神聖視され古より銅鏡を奉納する。羽黒神社とかいて「いけのみたま」と読み龍神として信仰された。

蜂子王子が上陸した、山形県鶴岡市の由良の海の八女浦の洞窟が、この鏡池と繫がっているとの言い伝えがある。

東照社

正保2年(1645)創建の東照宮で日光東照宮(栃木県日光市)の分霊を勧請した。

明治時代から、東照宮から東照社と改められた。

鐘桜と大鐘

1618年に再建された最上家信の寄進による萱葺きの鐘桜と大鐘。

松尾芭蕉像

奥の細道で松尾芭蕉は7日滞在し、羽黒山、月山、湯殿山を詣で俳句を句作した。

実は松尾芭蕉は日本全国各地に、最大数に人物像が多いのでは?

奥の細道で最北の目的地、秋田県の象潟を目指し庄内地方へ野ざらし的な紀行を続けた。

みらい三度笠は初めての出羽三山神社への参拝で、三山を巡った事になり、

生まれ変わり次の目的地へ向かった。

伊達政宗誕生の館山城と上杉謙信の米沢城の旅 山形道中記シリーズその1

 

イメージ図はフィクションです





今回の道中記は山形県と秋田県と新潟県を新潟を、サイバー大八車でドライブした。2025年4月の道中記。

山形県米沢は上杉謙信のイメージがあるが、伊達政宗の生誕の領地でもある。

山形県米沢市の館山城が伊達政宗公の、誕生の地という説があるので行ってみた。

仙台の伊達政宗のイメージが強いが、豊臣秀吉の奥州仕置で伊達政宗は米沢を去り

大崎・葛西(宮城県大崎)の旧領を与えられ岩出山城を本城に定め、後に領土拡大し

12年後に仙台へ居城を移し領内統治を行った。

東京から東北自動車道に使えば、米沢観光は日没までに着く時間に出発をしたが、

東北自動車道で久喜白岡IC手前で羽生ICまで、2時間かかる事故渋滞に巻き込まれた。なんだとこの渋滞・・・俺のこの燃え上がった山形道中意欲をどうしてくれるんだょ!これは大友克洋のアキラの山形ァ風のセリフが浮かんだ。

久喜白岡ICから一般道に降りて羽生ICで再び高速に乗り直したが、一般道も渋滞で羽生ICまで80分もかかり、米沢市に日の明るい時間に着かないかも知れないので、米沢館山城址に行くのは諦めてかけたが、

「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の有名な

米沢藩主の上杉鷹山の和歌を思い出したので、頑張ってとりあえず休憩する。

パーキングエリアでイチゴソフトを食べて落ち着いて何とか、日暮れ前に伊達政宗公の生誕の地の国指定史跡米沢舘山城址になんとか、和歌の為せば成るで到着した。

入り口に私有地につき関係者以外立ち入り大歓迎と書いてあり、安心してサイバー大八車を駐車場に停めた。

国指定史跡館山城跡

東京は桜は散っていたが米沢では桜は満開だった。

幻想的な満開の桜が夕暮れの風景に、古からの時の移ろいを感じた。

伊達政宗公生誕の地

伊達政宗公生誕の地碑の後方には大樽川が流れている。

地図

 

本丸(本曲輪)への急な勾配を上がる

日が暮れ出しており、日没寸前までに戻らないと暗闇で下山が出来なくなる寸前の時間だが本丸に行ける所まで登ってみた。

飲み水と地図が用意されていた

飲み水や杖が用意されている。

逢魔が刻の夕暮れは野生動物の活動が始まる時間帯だ、念の為に棒を杖に持って
50M位の高さに見えるが登ってみた。

車曲1南川虎口東館への出入り口

城や車曲げの出入り口は桝形虎口と呼び、下から登ってきた敵を迎え撃つ

腰曲輪からの米沢市街

腰曲輪の目的は斜面の防衛防衛の為。

この下に貯水池があり、東北電力(株)館山発電所の水力発電の施設がある。
この場所に着いた途端に、大きな音のサイレンが響き渡り続けた。

この真下にある東北電力館山発電所の、水力発電の放水が始まったと思われる。

下山したくなるレベルの轟音だ。

しかし、轟音で野生動物が驚き退散するので、これで安心して車曲を散策出来そうだ。

破城跡2

豊臣秀吉の命により破城され、後に上杉家にも使われ石積みは後に破城されたという。

掘割付近からの米沢市の眺め

細い道を進み物見台まで見物したので、日も暮れ暗くなったので大樽川側の掘割から下り館山城址を出た。

 

次の目適地は近くの米沢城で、着くと夜だが意外と人出があり活気があった。

米沢城は伊達政宗の本拠地であったが、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の

奥州仕置により会津若松城と領地の会津は没収され、仙台の岩出山城に転封された。

その後は浦生氏から上杉氏が統治をし現在は、松が岬公園となった。

夜なので景色を期待していなかったが、米沢城はライトアップされてとても綺麗な夜桜が見れてこの時間に来て良かったと思う。

米沢城の水堀

戦国時代の武将達が自称を含め名乗った、朝廷から正式に叙任される京都の監察・治安維持の役職の「弾正」では、上杉謙信は弾正少弼(だんじょうしょうひつ)の正式な官位で、織田信長の弾正忠(だんじょうのちゅう)よりも一段官位が高かった。

江戸時代の米沢上杉家は上杉弾正大弼家とも呼ばれる。

朝廷から授かった紺地日の丸(こんじひのまる)の旗は、長尾家に代々伝わる。

上杉軍の旗印は刀八毘沙門(とうはちびしゃもん)で、上杉謙信が深く信仰していた

毘沙門天の「毘」を取り旗印とした。

龍字の旗

龍字の旗は龍の字を崩したもので、懸り乱れ(かかりみだれ)龍とも呼ばれ

敵中に突撃する際、馬前に掲げられました。突撃
は龍のうねるが如く、敵前に乱入せよという意味なのです。

水堀の桜

上杉謙信は本当は長岡景虎であり、越後長尾氏の当主の長尾景虎だった。

後に山内上杉家の養子になり上杉姓を名乗り、上杉謙信は長尾景虎が

越後長尾氏の当主として関東管領を、継承した人物になった時の名前でした。

伊達政宗誕生の地の碑

伊達政宗誕生の碑が此方にもありました。どっちなんだろうか。

上杉鷹山像

米沢藩9代目藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)の和歌の石碑

なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬは人の なさぬなりけり

の有名な名言の人物はこの御方でした。

上杉神社

上杉神社は上杉謙信・上杉景勝が祀られている。夜なので木戸が閉まっていたので、

参拝は出来ず。

カラフルなライトアップ

 

大渋滞で諦めかけた米沢巡りだったが正に、なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬは人の なさぬなりけりの米沢城で、その意味が夜桜の美しさで、なせば成された。
                                   

                                    続く





 

 

鉄フレームのスポーツ電動アシスト自転車で箱根越え

 

みらい三度笠が時代を先取りし既に、江戸走りをしていた動画も観れる。


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 みらい三度笠の電動アシスト自転車の理想は、鉄のクロモリフレームの電動アシスト

スポーツバイクが欲しかった。多数のスポーツ電動アシスト自転車を試乗はしたが、アルミフレームは乗り心地が悪く、サスも必要なくチタンやカーボンは高価で購入をしなかった。

あれから15年以上ロードバイクなどに乗りながら待ち詫びたが、遂に鉄フレームの

スポーツ電動アシスト自転車が国産メーカーから登場した。

それがYAMAHA PAS CRAIG パスグレイクだ。

しかし、鉄フレームとしか表記が無い。最近は自転車もスペック表が杜撰になった。

これはクロモリ鋼ではなくて、1ランク下のハイテンション鋼であろう。

ベント加工(曲げ)の無い、ストレートフォークのハブが付くエンドはラグではなくパイプ官先端の潰し切り込みエンドで、スローピングしたダイヤモンドフレームであるが、これもつめは潰し切り込みエンドで溶接エンドではない。フロントはダブルピボットキャリパーブレーキで小さい赤いブレーキシューリアはローラーブレーキで、変速機は内装3段変速だ。

ピーキー過ぎる3段変速ギア比と制動性に不安がありそうなブレーキで、スポーツ走行向きではない。

数年前に発売した、パスブレイズの内装8段変速からスペックダウンし、夢も希望も改造の余地も無い街乗りシテイモデル仕様だった。

それはクロスバイクの皮をかぶった、ママチャリだった。

しかし、ダイヤモンドフレーム故の良さは前傾姿勢のポジションで3点の手とサドルとペダルへ荷重が分散し、ママチャリの様なポジションはサドルへの荷重が大きくなりケツが痛くなるが、コレは少なく空気抵抗も減る。

そんな訳で15年も待ち侘びた、夢のスポーツ電動アシストクロモリ車ではないので、購入を躊躇っていたが、安売りを発見したので気分はハイテンションに鋼入いや、購入をして後に合法的に自分で改造をした。

分解するとローラーブレーキ故に、パンク等の修理でまずブレーキの分解が手間がかかる。

クイックレバーの無い婦人車の整備の大変さを思い知ったが、ロードバイクは引退したので、もうコレしかない。

2024年12月に天下の剣である、箱根峠の旧道の峠越えとダウンヒルのテスト走行をするべく、サイバー大八車で小田原まで電動アシストクロスバイクを運んだ。

前回のブログの続きでもある今回の話は、上野不忍池の東海道駅伝徒歩競争が箱根駅伝となった、箱根峠でのテスト走行だ。

東海道五十三次の小田原宿沿いの、箱根口ガレージ報徳広場の二宮金次郎と 製造から100年目の車両202号

輪行も考えたがフロントフォークのハブ部分の、スピードセンサーのプラスチック部品が華奢で嵌め戻し時に、破損しそうで分解が大変なのだ。軽量化しても約19kgの車重はキツくやっと治ったテニス肘が、再発しそうで怖いので輪行は止めた。

朝の小田原市を箱根峠の始まりの、箱根湯本の三枚橋まではバッテリーを切って走行をした。

三枚橋

三枚橋から電動アシストの電源をポチっとなと、押して3段階のモードの2番目

SMARTモードでビックリドッキリメカの、電動アシスト車で9時13分頃に発進した。

芦ノ湖までは約10km、獲得標高約700mの道中で、最大20%で平均6%の坂が続く。

2015年には第三東京市が完成済みの予定地だった芦ノ湖まで、内部電源バッテリー8.9Ahは持つか分からないが、逃げちゃだめだ。

箱根旧道の三枚橋から先はいきなり急勾配で、今までの箱根旧道サイクリングでは毎回最大心拍数になり息が上がっていたが、電動アシスト車はたいして呼吸も乱れずに疲労も少なくスイスイ昇れてしまい、登り初めからその性能の良さに驚いた。

カーボンロードのDi2デュラエース電動シフト仕様も所有していたが、みらい三度笠の脚力レベルでは猫に小判だった。、体力の限界で引退した趣味のロードバイクの外装多段よりも、内装3段変速しかない電動アシストクロスバイクの方が楽に自転車走行を楽しみながら峠を早く登れるとは驚いた。

当初のホムセンの安チャリ扱いから、実は大人のスーパーカー自転車だと見直した。

8.9Ahバッテリーが箱根峠の、20%以上の勾配の場所で切れないかが最大の

問題だった。

約2kmで日本橋から二十二番目の一里塚の湯本一里塚を過ぎ、馬立場に到着した。

江戸時代の旧道は右の下りに行く。今回は左の旧道を行く。

馬立場(馬の休憩所)跡にある馬の水飲み場がある

バッテリー消費は体重により差があるが、90%の残量になった。

須雲川自然歩道

旧東海道と東海道が交わる江戸時代の須雲川自然歩道で、三枚橋から約5kmバッテリーは残り80%位だった。

畑宿一里塚

畑宿は寄木細工が有名で、畑宿一里塚は日本橋から二十三番目の一里塚。

この一里塚でバッテリー残量60%だ。さらに20%レベルの難所の急勾配の箱根旧道七曲りが始まり、バッテリー消費スピードが激しくなる。バッテリーの数字がすぐに減ってしまう。

七曲りの自動車専用道の赤い箱根新道高架下の、難所のヘアピンカーブの急勾配が電動アシストで楽に登れて感動した。

右の旧道階段が七曲りの近道だった。

実は七曲り区間は江戸時代の畑宿一里塚からは、江戸時代の旧東海道の階段ルートの方が徒歩ならば車道より楽に登れる。

猿滑坂の右が江戸時代の東海道の階段の猿滑坂

その先の猿滑坂が、箱根峠の急勾配のピークでもある。

猿滑坂を超えると約8kmでバッテリー残量は30%になった。

電動アシストの活動働限界時間は近い。標高846mの箱根峠までバッテリーは持つのだろうか?

甘酒茶屋

甘酒茶屋で与五郎祭りが開催されていた。甘酒茶屋に忠臣蔵の赤穂浪士の与五郎が立ち寄った事のお祭り。休憩せず先を急いだ。

お玉ヶ池を過ぎ権現坂に着くと、約9kmでバッテリー残量は6%になってしまった。

此処から箱根変電所のある、江戸時代の東海道の石畳の箱根八里越えルートを進んだ。

箱根八里石畳

権現坂

権現坂は小田原からの旅人が苦労の末に、芦ノ湖を見下ろせる場所。

今回は電動アシストで、あまり苦労はしなかったが見下ろす。

階段

電動アシスト自転車は担ぐと重いので、歩行アシストパワードスーツを早く発売して欲しい。

素晴らしい箱根の理解者のケンベルとバーニーの碑

12月の芦ノ湖

バッテリー残量4%で、めでたく芦ノ湖に1時間50分程で到着した。

2015年には第三東京市になるはずだった。

国道1号線沿いにある、葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚24番目の一里塚を過ぎるとすぐに

国道1号線と東海道は旧道の箱根杉並木に分かれる。

ダートの旧東海道の箱根杉並木を通り抜ける。


箱根の関所に到着すると、バッテリー残量は3%だった。

箱根関所跡から約8760mの江戸時代の東海道都の分岐点

江戸時代の向坂への分岐で、バッテリー残量は0%になった。


スタート地点から箱根関所の先の此処まで撮影しながら1時間55分の

タイムとは。通常の箱根峠を何度か自転車で、ヒルクライムをした時は疲労困憊になる。

今回は比較にならない位に疲労感が少なく、この時点で余裕で余力が残った。

国道1号の富士見橋の下が旧東海道

富士見橋の下に先程の江戸時代の東海道の向坂とこの先に見える、富士見橋の下の道が

赤石坂で挟石坂に続く坂道。

約2km先の箱根峠頂上の846mまでは、東海道の国道1号を電動アシスト無し走行だ。

バッテリー駆動の活動限界時間を過ぎたので、みらい三度笠の脚力のみで内装3段変速の軽いギアで坂をクルクルと、暴走気味にペダルを回し続けたがママチャリ並みに遅かった。

芦ノ湖が見える

人力のみでママチャリ内装三段変速仕様でも、この位の傾斜は登れた。

箱根新道

此処は左から箱根旧街道の東海道五十三次と箱根新道と国道1号の東海道の3つの道の峠への分岐点で、ここが箱根八里の箱根峠の四里の場所。

挟石坂

東海道五十三次の挾石坂は、バッテリーが切れたあたりの富士見橋の旧道に繫がっている。

箱根峠頂上846mに到着した。

箱根峠頂上846mに到着をした。時刻は11時45分で三枚橋から撮影と寄り道をしても2時間30分程で着いたのは、自転車では自己新記録だ。

東海道五十三次の石畳を再現した箱根エコパーキング。

この先のこわめし坂を四里下れば三島宿になる。
スタート地点の小田原まで同じルートで、急坂の東海道のダウンヒルをした。
フロントブレーキはノーマルのままだが、ブレーキシューだけはデュラエース9000に交換した。

リアブレーキはママチャリのローラーブレーキで不安だったが、握力はやや使うが
箱根旧道ダウンヒルでもよく効いた。しかし富士山の五合目からのダウンヒルだと手が疲れるだろう。

ローラーブレーキの強化版ハイパーローラーブレーキも販売されているが、ディスク形状の放熱板が付き、ややロックし易い程の制動性らしいがコントラーブルではないかは不明だ。

最近はディスクブレーキが主流になりつつあるが、ホイール着脱に手間がかかる欠点のローラーブレーキの意外な良さを発見した。

バッテリー台座

その後、バッテリーの容量を拡大する為に、バッテリー台座の15.8Ah用を購入して箱根を越えられるように改造した。これで箱根峠も安心して越えられる。

 

 

 

 東海道駅伝徒歩競争という箱根駅伝の原点では不忍池がゴール地点だった。 大正時代の東海道五十三次自転車旅

 2024年12月の道中記

今回は江戸っ子のみらい三度笠らしく、お江戸東京のネタのサイクリングで

上野に行き東海道五十三次のような感じのする、箱根駅伝の歴史を辿ってみた。


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2021年1月のみらい三度笠の道Tubeで徒歩で東海道五十三次を走破してから、

2026年の5年前の時に見かけて気になった、京都三条大橋にある東海道駅伝徒歩競争の石碑。

上野不忍池中島弁財天

 

中島弁財天を祀る不忍池は、琵琶湖を模しているとも言われる。

江戸っ子なのに不忍池に謎の駅伝碑があった事を、最近まで気が付かなかった。

上野・不忍池の駅伝の碑

東海道五十三次の旅で御江戸東京から京都三条大橋に着くと、これと同じ駅伝の碑が

有った事で点と点が結ばれた。

それは東京奠都(とうきょうてんと)50年記念奉祝博覧会 が 1917年03月15日

(大正6年)~1917年05月31日(大正6年)に 東京都 上野公園(不忍池畔) 主催は読売新聞社で宣伝も兼ねて開催された。

その「東海道駅伝徒歩競争」の碑である。関東組と関西組の2つに分かれて

京都三条大橋からスタートして、タスキリレーで東京上野不忍池までの約508kmを、23区間に分けて3日に渡って開催された。

サライは流れないが夜中に箱根峠越えになる為、地元の住人が松明かりを照らした。

大正時代は木曽川と天竜川には橋は無く、渡し船で選手は渡った。

東海道五十三次の宿場図のようだ

当時、ほぼ東海道五十三次のようなルートで、東海道駅伝徒歩競争が開催された。

そのルートを不忍池から日本橋までをサイクリングで辿ってみた。

不忍池を三橋(みはし)に向かう

三橋

 

江戸時代のこの先は不忍池から中央道理を横切る小さな忍川が隅田川に流れていた。

その為に3つの橋の三橋が架かり、中央の橋は将軍の参拝の為の御橋(みはし)と呼ばれ、東叡山寛永寺の表門の黒門や、仁王門の参拝の為に架かっていた。

上野四丁目

此処から中央通りで日本橋を目指す。

上野広小路

アメ横や御徒町駅のある上野広小路。

秋葉原

神田明神通りの交差点の秋葉原に到着する。

徒歩競争のフリーレン

秋葉なので流行りのフリーレン貼ります。

万世橋の神田川

秋葉原の今の万世橋は関東大震災後の復興で、1930年昭和5年に架けられた。

万世橋の北に神田川と合流する暗渠(あんきょ)見えない閉ざされた川があり

そのトンネル内部の酸欠事故防止の為か、入り口にタイヤで塞がれている。

これは真島町幹線・真島町雨水幹線と呼ばれる由来は、美作国真島町勝山の美作勝山藩の三浦氏下屋敷・真島藩があった。

この暗渠は江戸時代の駒込の染井霊園にあった長池が源泉の谷田川・藍染川で不忍池に流れていた。

昭和初期までに暗渠化され谷中からの藍染川は、暗渠化され現在は曲がりくねった道の

へび道と呼ばれる。

湯島ポンプ所に合流して上野三丁目から、中央通りの地下を流れ万世橋で神田川に合流する神田川は、すぐこの先で隅田川と合流する。

東京は江戸時代の多くの川を、暗渠化や埋め立をしている。

JR神田駅

JR神田駅のガードを潜り抜ける。

日本橋室町

左側の日本橋室町1丁目は、徳川家康の時代の三浦按針(ウイリアム・アダムス)の

屋敷があり、かつては按針町と呼ばれその名残の按針道りが今もあった。

2026年にはこの区画の大規模な再開発工事が始まったので、按針通りも閉鎖されていたが史跡の三浦按針屋敷跡の石碑が、再開発後にどうなるか気になる。

今の東京は駅やビルが大規模工事だらけで、しばらく不便な場所が多い。

 

へルメス像

ギリシャ神話のヘルメスは商業、交通、旅人の守護神とされる。

関東組のアンカーは国営放送ドラマ「いだてん」の金栗四三で、品川から不忍の池までは観客が多く先導の車で群衆を掻き分けた。

鳥山明のDrスランプのアラレちゃんの設定は、ギリシャ神話のヘルメスに似ていると

思う。

お江戸日本橋

お江戸日本橋に到着して、東海道駅伝徒歩競争ルートを辿る自転車旅は一応完了した。

日本橋南詰に巨大なビルが作られている

日本橋は橋の地点で道が曲がりになっている。高速道路の撤去は2040年の模様で、日本橋の上の高速道の覆いが取れて、日本橋に青空が戻り真の日本橋の復活する。

みらい三度笠が何度も道中をした江戸時代の五街道の道中が、日本の駅伝の始まり

の道筋でもあった。

 津島街道の旅  シェア電動アシスト自転車の津島上街道の 道中 東海道五十三次自転車旅の本当の完結編

☆自転車道中は本当にあった濃い話ですが、オカルト等、フィクションです。

津島街道の旅 シェア電動アシスト自転車による道中。

2024年7月の道中。

イメージ図はフィクションです

津島街道 津島上街道 江戸時代以前のイメージ図

津島市ホームページの、津島詣でマップを今回のルートの参考にした。

前日に東海道五十三次自転車旅の本当の完結の京都の道中を終えて、この日の2日目

に名古屋の熱田宿から佐屋宿の佐屋湊までの佐屋街道を、シェアサイクルで走破した。

テニス肘はまだ治らず、輪行袋を担ぐ事が出来なかった為だ。

江戸時代に整備された佐屋街道は昔は津島下街道とも呼ばれ、津島下街道と佐屋街道は日光川付近の増田追分までは、ほぼ同じ道筋だった。

その佐屋街道の道中を佐屋宿で終え続けて、名古屋市への帰路は

津島神社から清州市の新川橋の美濃路の合流まで津島上街道を道中をした。

津島詣り、伊勢参りの参道であり、鎌倉街道でもあったこの津島上街道は道中好きには

オススメの雰囲気が旧家の受け継がれた街並みや、再開発の更地の空地が、

この時点の2024年7月にも、残っていた。

懐かしい風景が失われる前に訪れる、最後の機会かもしれない。

津島街道の上街道は3里15町約13.5km  津島・勝幡(しょばた)愛西市・木田・甚目寺・あま市・新川(清須市),名古屋結まで安土桃山時代から江戸時代まで栄えた。

佐屋宿から津島上街道の天王公園へ向かう

津島へのこの道が、天王川の跡に出来たのではないかと錯覚する。

天王川公園

天王公園は尾張津島藤まつりが行われ、公園の看板にも藤の花が描かれている。

津島街道の上街道・下街道の起点となる、天王川公園に到着した。

天王川公園

天王公園の池はかつて500年前は津島湊と呼ばれ、川幅300mの天王川が流れ津島神社の参拝の為に長さ100mを超える天王橋が掛けられ、街も船の往来も多く商業も賑わった。

         津島天王祭 余祭 巻藁舟              作・広重

約600年の歴史がある津島天王祭が毎年七月に催され、この池に提灯を飾った5艘のまきわら船が宵祭を行う。

         津島天王祭   朝祭 車楽船         作・広重


次の日は西市の市江車の車楽船6艘が朝祭りを行う。

津島街道の起点の、津島神社の南門に着く。

津島神社の大鳥居

津島神社の主神:建速須佐之男命 神仏習合の牛頭天王 

     相殿:大穴牟遅命(大國主命)

創建は欽明元年(西暦540年)古くからお天王様と尊呼されており

厄除け・疫病除け・商売繁盛・縁結びの御利益があります。

西の八坂神社、東の津島神社と呼ばれる。

全国の天王社の総本社として、全国に約3000の分霊社が有る。

 

蘇民将来伝承

「吉備風土記」などの書によると旅の途中で宿を求めた神様(須佐之男命・牛頭天王・

武塔天神)が裕福な弟の巨旦将来には断られ、貧乏な兄の蘇民将来は出来る限り栗ご飯でもてなした。後に再訪した神様は、蘇民将来の一族に目印となる芽の輪を付けさせて他の一族を疫病で皆殺にしたという。

疫病を流行らせ、疫病を退散させる神が(須佐之男命・牛頭天王・武塔天神)。

神社の重要な儀礼の大祓(おおはらえ)で使われる茅の輪(ちのわ)の祭具が使われる由来がこの蘇民将来伝承となります。

津島神社の蘇民将来の護符は、六角柱のこけしが授与される。

みらい三度笠は疫病コロナのワクチンを、一度も打った事は無い。

重要文化財指定の楼門

重要文化財の桜門は天正19年(1591年)に豊臣秀吉公が寄進した。

勝幡の織田信長の氏神であり、徳川家も寄進をした。

 

今回の道中の始まりの前日の7月の京都では、八坂神社の祇園祭が開催されていた。

そして翌日の今日は津島神社から、津島街道の上街道の道中で完走する。

西の八坂、東の津島京都の八坂神社と愛知県の津島神社は共に、建速須佐之男命、

古くは牛頭天王を篤く信仰されている。

 

建速須佐之男命・牛頭天王・武塔神は疫病を流行らせ、同時に疫病を防ぐ神への御霊祭が今回の道中の始まりの京都は祇園祭が行われており、最後の愛知県の津島神社では

主祭神が同じで、御霊信仰を詣でる道中の締め括りとなったのは偶然だった。

今回の本当の東海道五十三次の完結編で、御詣りした京都神田明神は平将門公を祀る。

蘇民将来の門飾りのしめ縄は全国的に、蘇民将来門子孫家門と木札に記されるが、

三重県伊勢地方では笑門と書かれる事の理由は、平将門の文字に見えるからという

説がある。

 

堀田家住宅

国指定重要文化財の江戸時代に建てられ堀田家住宅は、休館中だった。

津島神社の参拝をして参道である、津島街道をシェア電動アシスト自転車を漕ぎ、

上街道と下街道の分かれ道の、突き当りのT字路に着く。

本町筋

津島神社の参道の本町筋という通りで、津島神社から写真の右は津島街道の下街道で

今さっき完走した佐屋街道と、ほぼ同じ道筋の岩塚・熱田方面となる。

津島神社参道碑

本町筋の左のこちらが、津島街道の上街道で甚目寺・名古屋方面のこれからの道中となる。天王通りを通過すると、井戸がある。

上切の井戸

 

津島の伏流水による江戸時代の共同の井戸、上切とはこちらの地名

清正公社の石碑

上切の井戸の近くに清正公社の石碑があった。この時は通過したが、

この裏に加藤清正が幼少期過ごした伯父の家があり、明治時代に清正公社として

神社が建立された。

兼平堤

旧天王川の左岸の堤だった場所。応永十年(1403年)牛頭天王社(津島神社)の鐘をこの辺りで作った事から兼平堤と呼ばれる。

名鉄尾西線の踏切を超えて、中央分離帯のある大道りの79号線を越えると

是より西つしま 右名古屋 左森上ー宮町と指差しのマークが刻まれた道標がある。

道標 

 

指がウイークエンダー?の、よーです。

何時の時代に造られた道標か分からないが、指差しの彫刻のセンスが現代風である。

日光川

少し領内川沿いを進む状態の津島上街道が、日光川と領内川が合流するあたりで

日光川を渡り左に川沿いに行くと、織田信長の勝幡の地になる。

勝幡城址に行ってみた。

勝幡城復元図

津島上街道ではないが、日光川に掛かる嫁振橋には勝幡城復元図があった。

勝旗城址

日光川を渡ると勝幡城址があり、信長の祖父の織田信定が築城し、

天王川の船の貿易で富を築いた,父の信秀と信長が出生したとされる説が

近年、有力な場所とされる勝幡城址。

かつてはこの地名は塩畑(しょばた)から、縁起の良い勝幡に改められた。

現在は信長の那古野城のような戦国時代の城の面影も無く、石碑と看板があるのみ。

津島街道沿いの勝幡から、津島や熱田を勢力下に収め勝幡織田家と呼ばれた。

信長の幼少期の名は吉法師と言い、うつけと呼ばれた。

その後は、清州三奉行家の織田弾正忠家という家柄を継ぐ。

弾正忠(だんじょうのちゅう)とは律令時代の弾正台は観察・治安維持などの官庁で

弾正忠とは京都の風紀や治安維持を、取り締まる役職であった。形骸化して

戦国時代には自称の弾正忠も多かったが、織田家は正当だと言われる。

 

今回の道中でみらい三度笠はこの津島上街道の道中の前日に、

京都で菅原道真公の北野天満宮に御詣りをした。

織田信秀は菅原道真公を信仰しており、北野天満宮より菅原道真公の木造を勧請し

那古野城(なごやじょう)の祠に祀った。

信長は熱田神宮に、菅原道真公の肖像画を奉納している。

勝幡神社

勝幡神社は3月の大祭の供物に、樽詰めのオコワイがある事からオコワ祭りと呼ばれる。

道標

説明版

 

右名古屋 左津島 と刻まれる道標が有る。津島上街道は此処を右折する。

此処は高須海道(津島上街道)と清州海道の分岐路の道標だった。

朝に名古屋の熱田から佐屋街道を完走し、続けて津島上街道を走り続けていたが

道中で飲食店などは見当たらず、ようやく¥100均やらドラックストア併設の

イートインがありそうな、スーパーがあった。

疲労の少ない電動アシスト自転車といえど、腹は空くのでお米の物ばっかりの

昼飯にした。

お米もの祭り

おはぎに豆乳は、最高の組み合わせではないかと思う。

文字は三宅村らしい

日比川の手前の石碑には三宅村まで読めた。

蜂須賀弘法是ヨリ北三丁

この辺りからかなり津島上街道よりになる、名鉄津島線の青塚駅の踏切にある石碑には

蜂須賀弘法是ヨリ北三丁の石碑が有る。

これより北に進むと蜂須賀小六公邸跡、蜂須賀城址と蓮華寺が有る。

青塚駅に電車が止まる度に、ブレーキの鉄粉が飛んで道標はこの錆色になってしまったようだ。

車のホイールクリーナーで、洗浄したらキレイになる?

蜂須賀小六正勝は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え江戸時代に徳島藩主となった。

東海道五十三次の宿場の徳川家康の三河岡崎宿と、池鯉鮒宿の間の矢作川に掛かる

矢作橋に江戸時代に流行った史実と違う創作の、日吉丸(若き秀吉)と蜂須賀小六の出会いの場面の石像がある。

通常は金属プレートの街区表示板が、旧家の街並みに合う石柱の道標であった。

七宝駅にある、おまつの方生誕の地の案内板

戦国武将の前田利家の正室である、おまつの方の生誕の地が有るので

何回も往復して、よく探したが見つかりませんでした。

ゴム張りの踏切

名鉄津島線の線路を斜めに通過するポイントは滑り易いので、自転車等へ滑り止めに

ゴムがレールに敷かれている。

津島街道に面した、甚目寺観音の南大門に着く。

甚目寺観音 南大門

甚目寺観音は尾張四観音の一つで、594年の創建の歴史を持つ。

南大門・東門・三重塔は国の指定重要文化財。

この南大門の左右の金剛力士像は、福島正則の寄進。

道標

甚目寺観音の前の津島上街道に道標があり、右つしまみち・左さ屋まじまみち

と刻まれている。

五条川を渡ると清須市

五条川の手前を左に曲がると、中世の鎌倉街道の萱津宿や津島下街道・佐屋街道方面

になる。

五条川を渡ると津島上街道清須市になる。

鳥山明先生の清須市で五条川とかジャンプ感満載の聖地で、もうすぐゴールで

オラ、わくわくして来ただ。

往来安全

清須市桃栄の交差点にある石碑に往来安全と刻まれている。

そして、新川橋手前の新川橋橋詰ポケットパークという津島上街道の起点で

今回のゴールに到着した。

この目の前の新川橋は、津島上街道と美濃路の合流地点で、その美濃路で名古屋の熱田にへ戻り、これから御江戸東京への帰路となる。

みらい三度笠の本当の東海道五十三次自転車道中は、御霊信仰の巡礼の道中でもあったが無事に真の目的地に到着した。

 

貴種流離譚という物語の類型は、多くの世界の神話でも見受けられる。

ロバート・キャンベルの著書「千の顔を持つ英雄」では神話の構造では、

高貴な存在が流浪の旅に出て、試練に対峙し克服し成長して帰還することが多く見受けられる。

蘇民将来の素戔嗚尊が南海の娘の嫁を探す旅をする神話や、ギリシャ神話の

オデュセウスや、キャンベルに影響を受けたルーカス監督の初期スターウォーズなどの映画、文学、漫画、アニメ、なろう作品はその類型となる。

貴種流離譚の物語は人々に共感を呼び、人々の人生の成長の旅路に当てはまる。

江戸時代の五街道を巡り、本当の東海道五十三次自転車旅で旧道流離譚は終わった。

みらい三度笠の旅立ちの始まりの地である、御江戸東京の地に本当の帰還をした。

その後、願いが叶った為か北陸街道自転車旅の道中で、翡翠の産地の糸魚川宿で

手に入れたお守りの固い翡翠の勾玉が割れた。

                               おしまい。

 佐屋街道の旅  熱田宿~佐屋宿の道中記 愛知県名古屋市 東海道五十三次自転車旅の本当の完結

 ☆自転車道中は本当にあった濃い話ですが、オカルト等はフィクションです。

氣 東海道五十三次自転車旅の本当の完結編シリーズ 名古屋編

        佐屋街道自転車旅 (さやかいどうじてんしゃたび)

庄内川 万場の渡しのあった付近

明治六年には佐屋川は川底に土石が堆積して川底が上がり、川船の運航が困難となり

木曽川改修や川筋の付け替えにより、佐屋川は廃川となり佐屋街道は歴史を終える。

尾張名所図会 佐屋宿 佐屋川 佐屋湊 三里の渡し (着色した)

佐屋街道(さやかいどう)自転車旅 シェア電動アシスト自転車の道中記

 2024年7月の旅

 佐屋街道東海道五十三次の熱田宿・宮宿から桑名宿までの、約36kmの

熱田宿宮宿・岩塚宿・万場宿・神守宿・佐屋宿・佐屋湊(約24km)からの川船で桑名宿まで(約12km)六里と川路の三里の渡船の佐屋街道は、江戸時代は七里の渡しの脇往還道であった。

佐屋街道は古くは中世の東国と京都への鎌倉街道の一部で、萱津宿(かやつじゅく)

(愛知県あま市下萱津池端)から津島を結ぶ津島街道の津島下街道と呼ばれ

江戸時代には佐屋街道と呼ばれ、東海道佐屋周りや、佐屋路とも呼ばれた。

徳川家康が慶長20年4月大坂夏の陣で、大阪へ船で出兵し勝利した道が

佐屋街道であった。

慶長六年(1601年)に江戸時代の伝馬制により始まった、七里を海路で渡る

七里の渡し。

しかし、天候により海が時化で、荒れ欠航の場合もあり七里(約28km)の海路は犯罪に巻き込まれる危険性があった。

寛永十一年(1634)の三代将軍家光の上洛により、佐屋街道は整備された。

安全な佐屋川の三里の渡しの佐屋街道を、多くの人々が利用した。

熱田宿。宮宿の佐屋街道起点石道標

熱田宿・宮宿 七里の渡し船しの湊 2021年YouTube東海道五十三次の徒歩道中より

桑名宿 桑名城 蟠龍櫓(水門総合管理所)の朝日  2021年東海道徒歩道中you tubeより

桑名宿の七里の渡し湊 2021年東海道徒歩道中 you tubeより

七里の渡しで海路を船で渡ると、伊勢国一の鳥居のある桑名宿の七里の渡し湊に着く。

三重県桑名市東船馬町)

右は中世・江戸時代の佐屋川     左は明治時代 佐屋川が廃川になる

みらい三度笠は東海道五十三次の道中を約12年間で自転車で3回、徒歩で1回完走したが、佐屋街道の道中は何回行っても未踏で、佐屋湊から三里の渡しの向こうの岸の

桑名宿までを渡れない!五街道を制覇するまで良い道の佐屋街道は最後まで

取って置く!?

この時の2024年7月のみらい三度笠はテニス肘を患い、重い輪行袋を運べないので、今回はシェア電動アシスト婦人車での、佐屋街道の初の道中となった。

一度も通った事が無い、東海道佐屋街道をレンタル電動アシスト自転車で走り

東海道五十三次自転車旅の本当の完結の京都道中」から、その日に名古屋に移動して、明日の名古屋の佐屋街道の道中に備えて、名古屋の鰻屋で、ウナギのひつまぶしを食べて栄氣を養う事にした。

チャキチャキの江戸っ子のみらい三度笠にも、タレの味が私の好みの関東風で

美味しかった。

焼き方はウナギを蒸さない、関西風なのでそのままで食べると身が固く感じる。

出汁でひつまぶしにすると、良い感じの柔らかさになり実に美味しい。

その出汁も良いお出汁で旨く、小葱共々お代わりをしてしまった。

高級なお茶漬けみたいで、旨い出汁を使い過ぎて水分を取り過ぎた。

やはり江戸っ子みらい三度笠は蒸して柔らかい関東風の方が、好みだと思った。

ご当地グルメとしては、西側の蒸さないウナギを食べるのも道中の楽しみだが。

京都から名古屋の宿に戻ると、泊まった宿で男の声が聞こえたが

「今日泊まった奴の事を教えろ」と部屋の薄い壁から個人情報保護法など無いであろう

宿主との、妙な会話の声が聞こえたが気のせいだろうか。

その声の主は後ろめたい所が有るから、ビクビクしてるのかと思った。

翌朝は早起きをして、前日にスーパーで買ったおにぎりと納豆を朝食にした。

愛知県名古屋市は毎相変わらず、自転車で車道を走ると法令順守で走行をしても威嚇でクラクションを鳴らすなど、車の走り方が愛知県名古屋市は毎度危ない。

佐屋街道の道中 東海道五十三次自転車旅の本当の完結編

ここから始まり。 

江尾時代末期の佐屋街道の図

名古屋の宿をシェア自転車で出発して、まずは2022年五月の美濃路自転車道中の

到着地点の宮宿・熱田宿に再び訪れた、今回は美濃路熱田神宮を御詣りした。

熱田神宮鳥居

熱田神宮

主祭神熱田大神 

熱田大神は、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代

(みたましろ御神体とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)

三種の神器草薙剣を奉安する尾張三宮

上知我麻神社

上知我麻神社

主祭神 乎止與命 (おとよのみこと)

熱田の知恵の文殊さまで,

知恵の神様として崇敬を集めています。

宮簀媛命(やずひめのみこと)の父親にあたる。

宮簀媛命は日本武尊(やまとたける)の妃であり日本武尊の亡き後に、託された

三種の神器草薙剣を熱田の地に留め置き、熱田神宮の起源となりました。

神宮の境内の上知我麻神社をお詣りした。

織田信長は清州城から、上知我麻神社にて願文で幸若舞を奉納してから、

今川義元の軍勢が二万五千人、織田軍が三千人の桶狭間の合戦1560年6月12日

(旧暦永禄3年5月19日)5月17日に出陣した信長は逆転勝利した。

そのお礼に寄進をした、信長塀が熱田神宮の境内にある。

その当時の上知我麻神社の位置は、現在の熱田神宮の境内ではなく美濃路旧東海道

交わる場所に上知我我麻神社は祀られていた。

お詣りをして、かつての上知我麻神社であった場所に向かい、まずはみらい三度笠の

旧ブログの2022年の美濃路自転車道中以来、2年ぶりの2024年7月に

名古屋市内のシェアサイクルで、朝の七里の渡しを訪れた。

七里の渡し 2024年7月

その次は、源太夫社(げんだゆうしゃ)とも呼ばれた上知我麻神社の場所を訪れた。

東海道五十三次の道中で4回目、美濃路の道中で5回目、今回の佐屋街道道中で6回目

の来訪である。この看板はその向かいの場所となる。

太夫社(上知我麻神社)と東海道説明版

現在は焙烙地蔵尊(ほうろくじぞうそん)を祀るこの場所は、近年の戦火で

上知我麻神社が焼失して昭和24年に熱田神宮境内に移転し、上知我麻神社があった

この場所に付近に江戸時代からあった焙烙地蔵も戦火で焼失して、この場所に祀られている。

戦国時代は知立市は永見氏の領地であったが、今川義元が訪れ桶狭間の合戦の2日前1560年6月12日(旧暦永禄3年5月19日)5月17日に織田軍と前哨戦をした地である。焙烙地蔵は元は、東海道五十三次の39番目の宿場の知立宿(池鯉鮒宿)三河國重原村の草むらの中で倒れていた。

それを三河の焙烙売り商人が見つけ、両側に積んでいた焙烙の片側が売れたので

左右の安定の重石のとして、ほうろく地蔵を積んで熱田まで運び

焙烙を売り尽くしたので、焙烙売りは熱田の海辺の芦原に地蔵を捨てた。

地元の人が不憫に思い動かそうとすると動かず、掘り起こすと台座が現れたので

掘り起こしお堂を立て安置し手厚く祭られたのが、焙烙地蔵の始まりだという。

熱田の上知我麻神社の地にその地蔵が辿り着き、この地に留まる理由の謎が

その前哨戦にあるのかも知れないと、みらい三度笠は勝手に想像してしまう。

焙烙(ほうろく)とは蓋の無い平たい鍋のような形の、盂蘭盆の行事や食品を

炒る為の器や、素焼きの平皿などの事を言う。

ほうろく地蔵尊

信長攻略人生大逆転街道への訪問シリーズ 2024年度版は草刈り中

信長攻略 人生大逆転街道の道標がある。

草薙剣を祀る熱田神宮の御詣りの後に、現在はほうろく地蔵が祀られる場所で

かつて上知我麻神社(源太夫社)があった向かいの場所で、草刈りの途中に遭遇した。朝なので誰もおらず、縁起が良いかも。

美濃路を進み、遂に美濃路佐屋街道合流地点に到着をした。

此処からが、佐屋街道の起点となる。

佐屋街道 道標

山新橋南交差点には、文政四(1821)に建てられた道標の石碑があり文字には

東 右 なこや木曽 海道・南 左 さや海道 つしま道

西 右 宮海道 左 なこや道・北 文政(四)辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中

と彫ってある。

熱田から佐屋街道の始まりは、ほぼ直線的で尾頭橋で堀川を越えて、高速道路と

東海道新幹線のガードを潜るとすぐ近くに、唯然寺に津島街道一里塚の道標がある。

五女子一里塚とも呼ばれ、長者の七人娘が嫁ぎ子孫繁栄をしていった事から

その名が言われる。嫁ぎ先には二女子、五女子といった地名がある。

この津島街道一里塚の位置は熱田宿・宮宿の一里塚から計測した距離の一里塚だと

実際に走行をして思った。

佐屋街道の起点からだと、1里に満たない距離のような気がした。

佐屋街道の三里の渡しは江戸時代だが、古より津島街道で津島神社への道であり

江戸時代に東海道が整備される前には存在していた天王川の、4里の渡しがあった。

津島街道は古い鎌倉街道と同じ上路と、下路の2つの道がある。

佐屋街道は、津島街道の下路と増田追分までほぼ同じ道の為、津島街道一里塚が

佐屋街道一里塚と混在している。

唯然寺の津島街道一里塚 

近鉄名古屋線の烏森駅ガード下を通過する。

そのガードから約1,6km先の右側の歩道に目立たずに、佐屋街岩塚宿の

佐屋街道一里があるが自転車は原則左側車線走行なので、気が付かなかった。

近鉄名古屋線 烏森駅ガード下

初めの宿場の岩塚宿は岩塚佐屋街道一里塚付近から始まる。

旧道や史跡の石仏を訪れて、コケや汚れが多いとケルヒャーなどで高圧水洗浄して

綺麗に掃除してしまたい衝動に駆られるが、石も古いと硬度が落ちて脆くなっており

彫った文字や造形した部分は高圧洗浄で、破損してしまうかも知れずご利益か罰に

なるか分からないので無理だと思う。

岩塚宿

岩塚宿の万場の渡し付近になると、佐屋街道沿いに石碑が増える。

佐屋街道は渡しがあった庄内川の土手への道

この道の先に万場の渡しがあったが、現在は庄内川を超える為に万場大橋に向かう。

ネコが前を歩いていく

佐屋街道の渡しから現在の橋へと右に曲がると、石碑に居た猫がみらい三度笠の前に

ねこが出て来て、同じ七所神社の方向に前を歩き始めた。

向こう岸川の万場の渡し跡へ、現在の庄内川に掛かる橋を渡る為に七所神社への参道へ曲がり進むと、みらい三度笠の前に来たネコは、途中の家の壁の隙間に消え去った。

(略して、きねこさ?)また鳥居の前で変化が現れたのだろうか?

七所神社鳥居

七所神社

御祭神

日本武尊(やまとたけるのみこと)

天照大神(あまてらすおおみかみ)

倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)

高倉下命(たかくらじのみこと)

宮簀姫命(みやすひめのみこと)

乎止與命(おとよのみこと)

境内に三つの古墳があり、岩塚という地名の由来である。

尾張三大奇祭り「きねこさ祭り」が行われる。

鳥居の内側にある衝立は、蕃塀(ばんぺい)と呼ばれこの地域の神社でよく見られる。

岩塚宿と隣の万場宿は合宿で、月の15日ごとに宿場業務を交代で行っていた。

庄内川を渡る

万場大橋で庄内川を渡る。

庄内川

江戸時代は庄内川のこの辺を、万場の渡し船が往来していた。

万場の渡し跡

万場宿の万場の渡し跡には、秋葉社と常夜灯がある。

万場の渡し説明版

分かりやすい説明板が佐屋街道には多く、尾張名古屋の歴史が分かりやすい。

常夜灯

佐屋街道は大きい常夜灯が多いが、夜には今も光かるのだろうか。

万場の渡しから初めての、曲がり角に國玉神社・八剣社合殿が祀られている。

國玉神社・八剣社合殿

國玉神社・八剣社合殿

御祭神

大物主命(おおものぬしのみこと)

日本武命(やまとたけるのみこと)

天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

草薙御剣神霊(くさなぎみつるぎのしんれい)

この付近に、万場宿の高札場があった。

光圓寺

東海道五十三次道中で見たようなの

更に左に曲がる路面に何か怪しいタイル絵があった。

佐屋街道ルネッサン~ス!

今だに東海道五十三次の道中でよく見る、東海道ルネッサンス弥次さん喜多さん

その東海道の歴史に埋もれた、衝撃の佐屋街道バージョン弥次さん喜多さんを発見した。

砂子橋

新川を砂子橋で渡り右に曲がると万場宿の高札場(こうさつば)の碑があり、

さらにこの道を進む。

高札場跡

環状道路の高速道路の先に佐屋街道の、3番目の千音寺の一里塚の碑がある。

岩塚宿の2番目の一里塚は、見当たらない模様だ。

千音寺の一里塚跡

福田川、小切戸川を2つ越えて七宝町の交差点には、七宝焼原産地の碑がある。

蟹江川に掛かる2本の橋の奥の弓掛橋の先に、義経弓掛の松が有るので探したが。

その松は現在は五代目で、私有地の中にあるので確認は出来なかった。

由来は兄の源頼朝の命により、京へと向かう源義経の軍勢を休ませこの地の松の木に

弓を掛けた事から。

奥の橋が弓掛橋

神守宿の始まりにある、神守の一里塚は熱田から4番目の一里塚。

佐屋街道で北側の片側だけ現存している、神守の一里塚(かもりのいちりつか)

となる。

神守の一里塚

津島下町の交差点を右折し、神守宿(かもりじゅく)の穂歳神社(ほうとしじんじゃ)の祭礼の神守の山車の中町車が、収納されている山車蔵が建っていた。

穂歳神社の御祭神は大歳神。

尾張津島秋まつりには、神守の上町と中町と南町から山車が繰り出す。

からくり人形が山車の上で芸を披露する

中町車を収納している山車蔵

かつては津島下街道とも呼ばれた佐屋街道

この道の突き当りの左角は、神守の宿の本陣。突き当りに神守の宿跡の碑があり、間の宿の神守の宿の中心地であった。

神守宿

この神守の宿後の碑の右側に憶感神社(おっかんじんじゃ)が祀られている。 

御祭神は龗の神。雨を降らせる竜神様。

憶感神社の祭礼の山車の上町車の収納される、山車蔵がある。

神守宿本陣跡

左の建物は神守宿本陣跡。

日光川を渡る日光橋は、橋を架けることが難しい江戸時代にも橋が架かっていた。

日光橋を渡ると旧日光橋の石柱がある。

               日光橋常夜灯

日光橋から津島下街道と同じ道だった、佐屋街道を〇亀製麺所あたりで津島下街道から佐屋街道の分岐点で左折すると増田追分とも言われる津島街道追分・鳥居跡になる。

津島街道追分

東面・右 つしま天王みち 北面・左 さやみち 南面・あつた なごや道

と石道標に彫られている。

 

右の石柱は昭和三十四年(1959年)の伊勢湾台風で破損した、津島神社一の鳥居の柱の部分が残っている。

名鉄尾西線名鉄津島線の手前の道を南下して、日比野駅を過ぎたあたりで

踏切を通過する。

名鉄尾西線名鉄津島線の踏切

佐屋街道の石碑

この佐屋街道の石碑は、愛西市文化財に指定されている。

くいな塚への石碑

くいな塚への案内の石碑には、くいな塚これより一丁と刻まれている。

佐屋街道沿いにあり、松尾芭蕉の句碑があるくいな塚に行った。

  水鶏塚

水鶏塚(くいなつか)「水鶏鳴と人の云へはや佐屋泊」と句碑に刻まれている。芭蕉が水鶏塚は元禄七年(1694)、江戸から故郷の伊賀の国への帰郷の途中に、佐屋の門人であった素覧亭に滞在した時に読んだとされ、芭蕉の40回忌に孫弟子たちが宿泊地の跡に句碑を建てたという。 それがくいな塚の由来となった。

芭蕉の句碑

 

佐屋船場道標

佐屋船場道標は佐屋湊への道標は移設されている。 左 さや舟場道と彫られている。

キコクの生垣説明版

キコクの生垣

説明板のキコクの生垣の場所はこれではなくて、ブロック塀の隙間から見える

キコクの方だった。

         尾張名所図会    江戸時代当時の佐屋湊の風景                 

佐屋代官所

此処あたりが三里の渡しの佐屋湊で、佐屋川が流れ桑名宿まで川船が行きかい

繁栄していた過去が信じられない程、その痕跡を感じない今は静かな住宅街だった。

当時はここから更に三里の佐屋川の船旅だったが、現在の地面のアスファルトをなぞる様に電動アシストシェアサイクルで、桑名まで走っても桑名宿までは川で宿場もないので、佐屋湊跡の到着で、佐屋街の道中は終りにした。

東海道五十三次自転車旅本当の完結編 佐屋街道

みらい三度笠の東海道五十三次の佐屋時街道の電動アシストシェアサイクリング道中は本当に完結した。

 

しかし道中は、まだ終わらない。

今回の道中の始まりの京都で、素戔嗚尊を祀る八坂神社の祇園祭が催されている最中

だった。

祇園祭の起源は疫病退散の為に始まり祇園御霊会で、疫病を広める神の牛頭天王を祀り鎮める御霊会が催された。

今回はその京都で日本三大怨霊と言われる、二柱の平将門公と菅原道真公の社を参拝した。御霊信仰の道中の締め括りは、津島神社の参道である津島街道上路に行く。

かつて佐屋川の上流にあった、天王川は天王川の四里の渡しがあった。

天王川は佐屋川よりも先に、川が無くなった。

津島街道の尾張津島神社は八坂神社と同じく、素戔嗚尊そして古くは牛頭天王を祀る。

津島街道の上街道、清州市の新川橋美濃路へ合流し名古屋への帰路の道中となる。

菅原道真公 北野天満宮 京都 東海道五十三次自転車旅の本当の完結編

 ☆自転車道中は本当にあった濃い話ですが、オカルト・歴史等はフィクションです。 

  

 初めて北野天満宮詣りに行く為に、京都神田明神のある膏薬辻子の四条通りから、レンタル電動アシスト自転車で後院通りを右折して、二条駅から千本通を左折し、

中立売通りになり、一条通りと合流すると広場になっており、緑のアーケードの

北野商店街になっていた。

2024年7月のレンタル電動アシスト自転車の京都道中。

中立売通の案内板

京都は町の歴史が長く普通の通りにも、通り名がちゃんとあるので書いてみた。

チンチン電車のデザインのタイル

北野はチンチン電車が走っていた。

中立売通で緑色の屋根の北野商店街を通過して、北野天満宮一の鳥居に着いた。

北野天満宮一の鳥居

初めての北野天満宮の御詣り。

影向松(ようごうのまつ)

 

一の鳥居をくぐり右手にある影向松は、菅原道真公が祀られ初雪が降ると天神の

菅原道真公がこのご神木に降臨すると伝えられる。

撫牛 表参道

参道には数多くなで牛の臥牛が祀られている。

承和12年(845)乙丑の年に、菅原道真公は誕生した事から神の使いは牛とされる。
境内のなで牛が座った臥牛の由来は延喜3年(903)九州の太宰府で菅公の車を曳く牛が座り込んで動かなくなった場所に、遺言によりその地に埋葬された。
その場所が安楽寺となり、現在の太宰府天満宮となりました。

二の鳥居

二の鳥居の次は三の鳥居があり、その先きに楼門がある。

楼門

地主神社の楼門であり祭神は天神地祇(てんじんちぎ)

日本書紀によると、承和三年(836年)遣唐使のために天神地祇を祭った。

菅公と所縁の深い地主神社北野天満宮は、地主神社に場所をお借りして

創建された。

手水社 楼門側

私は手水社でお清めをしてから、お詣りをしている。

楼門から直線に参道を行くと、昔からある地主神社への参道になる。

楼門から左に参道を曲がると、その筋違い参道を行くと北野天満宮になる。

その曲がりには、深い意味があり北野天満宮の七不思議とも言われる。

祭神の菅原道真を偲び25年に1度営む、2027年に予定される「千百二十五年半萬燈祭」に向けた

提灯が準備をされていた。

 

三光門

三光門は御本殿前の中門で日、月、星の彫刻があると言われるが星は無く

星欠けの三光門と呼ばれ、北野天満宮の七不思議の一つとして語られる。

 

北野天満宮豊臣秀吉の遺命により豊臣秀頼により桃山時代の慶弔12年(1607年)に本殿を再建され、権現造と呼ばれる重要文化財の神社建築です。

北野天満宮

北野天満宮平安時代の天歴元年(947年)に創建された。

全国に約1万2千社ある、天満宮、天神の総本社です。

幼少より学業に優れた菅公(菅原道真公)は宇多天皇に重用された。

摂関政治の藤原(北家)の勢力の要職独占を抑え、天皇中心の政治の新政を始める為にに道真は政治の中心に活動をしていたが、藤原時平らによる陰謀によって大宰府

左遷された。

  •  
左遷から2年後の延喜3年(903年)にお亡くなりになる。
その後、菅原道真公を陥れ失脚に関わった藤原時平や、左遷に関わった者達が次々に
亡くなり天変地異や疫病が蔓延し、怨霊となった菅原道真公の祟りと怖れられるようになった。菅原道真公、平将門公、崇徳天皇という日本三大怨霊は平安時代に始まる。

菅原道真公と平将門公は、成し遂げようとした行為が似ている。

醍醐天皇は祟りを恐れ、菅公を右大臣の地位に戻し正二位を贈る。

しかし、御所の清涼殿の落雷で全焼し焼死者が出た。

その後、醍醐天皇崩御されてしまう。

落雷除け、過事除けの、おまじないの「くわばら、くわばら」は菅公の領地の「桑原」が由来とされる。

天慶5年(942年)平安京の巫女・多治比文子(たじひのあやこ)に右近の馬場(北野)に社殿を建て祭祀せよと菅公の御神託があったので、自宅に祠を建てた。

天暦元年(947年)、近江の国の太郎丸にも同様の御神託が下り、驚いた太郎丸の父・神良種(みわのよしたね)は、北野にある朝日寺の僧侶・最鎮に相談。文子の家の庭にあった祠を北野に移して、菅公を祀る社を建てました。

北野天満宮の創建です。

その後、藤原時平の弟の藤原忠平藤原氏よる大規模な御社殿を造り、

永延元年(987年)に一條天皇より「北野天満大自在天神」の御神号を賜る。

藤原忠平平将門が京で仕えていた。その後の平将門の運命が分かる。

戦国時代には北野天満宮は護国の神として祭られた。

江戸時代になると、天神さまは学問の神様、芸能の神様として人々に崇められ

現在も多くの参拝者が詣でる。

絵馬所

京都指定有形文化財の絵馬所は、京都で最古の江戸時代中期の歴史で、最大の絵馬所。

歌仙絵が天井や壁に飾られ、休憩所として使われていた。

帰りに一の鳥居に戻ると、行には無かった北野七夕祭の幟が立てられていた。

前日の夜に期せずして行く事になった、内神田の神田明神の鳥居から繋がる様な

出来事だったが、これで初の北野天満宮のお詣りを終えた。

京都神田明神の鳥居での出来事に続き、北野天満宮でも鳥居に変化があった。

朝の4時前に朝飯を食べたきりなので、午後1時になると空腹だった。

昼飯を食べる為に、北野天満宮の鳥居の通り向かいのとようけ茶屋で

食事を食べる事にして、精進料理みたいな豆腐尽くしの料理を注文した。

豆腐料理

茶菓子

こういう食事がしたかったので、美味しく満足した。

レンタル電動アシスト自転車で京都駅に戻り、近くのラックに自転車を返却した。
これで、東海道五十三次自転車旅の本当の完結 京都編は2011年1月23日より

完結をした。 

しかし、みらい三度笠の東海道五十三次自転車旅の本当の完結はまだ終わらない。

午後2時頃に京都駅から、新幹線に乗車して名古屋駅に到着する。

名古屋市内でまたレンタル電動アシスト自転車を借りて3時頃に今日の名古屋の

泊まる宿に向かった。

名古屋のレンタル電動アシスト自転車

 

明日は、東海道五十三次自転車旅の本当の完結の名古屋編は次回に続く。