☆この自転車道中は本当にあった濃い話ですが、オカルト話はフィクションです。
レンタル電動アシスト自転車で松原橋で鴨川を渡り、四条鳥丸(しじょうからすま)の四条通りから南へ向かい、綾小路通から杉本家住宅を過ぎると、
膏薬辻子(膏薬図子)(こうやくのずし)という四条通りと綾小路路の南北を通る
訳がありそうな曲がりのある、細い小道の膏薬辻子(こうやくのずし)に到着した。
綾小路通側の反対の、北側の四条通り側の立札の記載文の記載より。
膏薬辻子(こうやくのずし)
膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。また、膏薬辻子を挟む地域が、明治二年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられていた。この地域は、皇后を何代も輩出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして。この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が、天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。
天慶三年(940年)に、天慶の乱により戦死した平将門の首が京の町で晒されて以後、全国で天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業とされたため、各地で平将門の霊を鎮めるために首塚が築かれた。
京都でも空也上人が、道場の一角に塚(現在の神田神宮)を建てて供養したことから、空也供養の道場と呼ばれた。そして、空也供養の発音が訛り、細い道を意味する辻子と合わせて、膏薬辻子と呼ばれるようになったとされている。 京都市
みらい三度笠がレンタル電動アシスト自転車で、京都神田明神の鳥居の前に到着した
その瞬間に突然、拍手が何処からか複数で沸き起こった!?
やっはり昨夜の内神田の神田明神の鳥居の前に、何故か出かけたので
明日は京都で、何かあると気が付いていたが、やはりというか。
御江戸東京の将門塚から始まるみらい三度笠の、東海道五十三次の道中の本当の完走を
祝福しているかのようだった。
そう神田武(ガンダム)が言っている?
その拍手の主の正体は四条通り付近は、その時は祇園祭があり人々が多く集まり偶然、
私の到着とは関係なく何らかの理由で、拍手をしていた人達のタイミングと
私の到着が、偶然シンクロしてしまったというだけ。
リアルタイムで見たTV版エヴァ最終回の、拍手でおめでとうエンドみたいだったが。しかし、着く早々の拍手の渦でビックリしたが逃げちゃだめだ。
その時の膏薬辻子の道の拍手音は、自転車の車載動画に保存してあります。
鳥居をくぐり古い町屋の中の、京都神田明神にお詣りをした。
京都神田明神
御祭神 平将門公(たいらのまさかど)
大乙貴命(おおなむちのみこと・だいこくさま)
少彦名命(すくなひこのみこと・えびすさま)
東海道五十三次・中山道六十九次など江戸時代の五街道の徒歩・自転車の道中が
無事に達成出来た事に感謝した。
「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」とされる。
2011年1月23日より始まった、みらい三度笠の東海道五十三次自転車道中は
これで本当の完結が出来た。
次は、初めて訪れる京都の北野天満宮へ御詣りに、電動アシスト自転車を
大生郷天満宮
延長7年(929年)菅原道真公の第3子影行と平良兼の創建といわれ、日本三大天神のひとつとして知られています。延喜3年(903年)道真公が大宰府に没した後、この地に足をとどめ遺骨を祀ったといわれています。初天神祭などには合格祈願の参拝客で
賑います。
天慶6年、蒲田の豪族、蒲田杵太郎貞武が平良文の娘の梅姫の結婚にあたり、
菅原道真公に献納する梅木を、藤原仲平に分けて貰ったと謂われる。
菅原道真が延喜3年(903年)に太宰府で没したその年に平将門が生まれている
事から、将門は道真の生まれ変わり説がある。
将門記の説
平将門が占拠した上野国府で、巫女に降りた菅原道真公の霊験による神託を受けて
新皇を宣言した。
上野総社神社(群馬県前橋市)と宮鍋神社は、平将門が占拠した上野国府跡比定地
です。
2024年は初めて、太宰府天満宮にお詣りに行ったのでお詣りをする。
次回 京都 北野天満宮のお詣り